Month: September 2023

中村桂子『生命誌とは何か』

講談社学術文庫、2014年、原著2000年。

1 人間の中にあるヒト―生命誌の考え方
2 生命への関心の歴史―共通性と多様性
3 DNA(遺伝子)が中心に―共通性への強力な傾斜
4 ゲノムを単位とする―多様や個への展開
5 自己創出へ向かう歴史―真核細胞という都市
6 生・性・死
7 オサムシの来た道
8 ゲノムを読み解く―個体づくりに見る共通と多様
9 ヒトから人間へ―心を考える
10 生命誌を踏まえて未来を考える:クローンとゲノムを考える
11 生命誌を踏まえて未来を考える:ホルモンを考える
12 生命を基本とする社会

遺伝子ではなく、遺伝子のセット(システム)であるゲノムを単位としてみること。1980年代以降は、そのような研究動向となっている。ある種に共通の遺伝子を組み合わせながら、多様や個別を作り出すのがゲノムである。

生物の歴史にとって、15億年前に真核生物が現れたことは重要である。それも、一倍体細胞から、一つの細胞にゲノムを2セット有する、二倍体細胞になったこと。二倍体細胞は、ある回数増えると死ぬという特性を有する。「生あるところに必ず死があるという常識は、私たちが二倍体細胞からできた多細胞だからです。本来、生には死は伴っていなかった。性との組み合わせで登場したのが死なのです」(124)。

「一倍体細胞の段階では「個」の概念はもてません。その中でのゲノムのあり様、また細胞の存続のしかたは、DNAとして存続すればそれでよいという形になっています。しかし、有性生殖ででき上がった受精卵から誕生するのは、まさに個体であり、しかもそれは発生の過程まで含めるなら、他には類例のない、まさに唯一無二の存在となります。自己創出系という言葉にふさわしい存在です」(140)。

進化に関して、「生きものづくりは鋳掛け屋さんだとつくづく思います(もっともこの商売は若い人には通じなくなっているようで、しゃれていうならブリコラージュでしょうか)」(182)。

「最近はDNA、DNAといわれ、DNAさえ調べればなんでもわかるように思われがちですが、それは違います。ある遺伝子が、いつどこではたらいてどんな形をつくっていくのかを追わなければ、生きもののことはわかりません」(184)。

どこにでも転移してしまうがん細胞は、つねに内と外を主張している通常の生物や細胞とは異なり、「アイディティティを失っている」とも言いうる(199)。

「脳もそれ以外の身体もすべて含めた私という存在の機能が心なのではないか」(212)。

生物の共通パターン、1:積み上げ方式(鋳掛けや方式)、2:内側と外側、3:自己創出(最初は自己組織化)、4:複雑化・多様化、5:偶然が新しいものを、6:少数の主題で数々の変奏曲、7:代謝、8:循環、9:最大より最適、10:あり合わせ、11:協力的枠組みでの競争、12:ネットワーク。

生物の特徴、多様だが共通、共通だが多様/安定だが変化し、変化するが安定/巧妙、精密だが遊びがある/偶然が必然となり、必然のなかに偶然がある/合理的だがムダがある/精巧なプランが積み上げ方式でつくられる/正常と異常に明確な境はない。

循環系に基づく、ライフステージ型社会の構想。

――

生物やDNAの捉え方について、基本的には首肯できる。とくに、機械論的還元主義に抗して、関係性の中にある機能こそが重要であるという点。ちょっとあいまいで多義的だと思うのは、アイデンティティについての議論だが、一方でここがとても面白く重要なところでもある。生物の原理を、社会設計など他の事柄に応用する段階では、異論が多くあり得るだろう。生物一般の特性については非常によく要約してくれているが、人間の文化や文明の位置づけについては考慮されていない。それらは、生物進化の延長線上にあるのか、それともそれと対立さえしうるものなのか。人間の文化や文明はどこまで肯定されるべきものなのか。

なにもこの書を否定しているわけではない。当然これらの問いは、中村さんが提示しているような生命誌的考察の基盤の上に積み上げるかたちでなされねばならないし、そしてやはりまだまだこうした考察は欠けているからだ。

本ブログで取り上げた本のうち、近い問題を扱っている書として、小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書、2021年)

[J0403/230920]

高橋雅英「中東の原子力発電市場におけるロシア」

副題「燃料供給国としての強み」、『中東研究』547号、2023年度 Vol.1、94-103頁。

https://www.meij.or.jp/publication/chutoukenkyu/2023_01.html

たまたま目を通したけど、知らないことばかりで勉強になった。中東で原子力発電の導入が加速していること、そこにロシアがウラン産出国およびウラン濃縮技術保有国として存在感を示していること、実際にトルコやエジプトではロシアが原発建設を請けおったこと、ウクライナ戦争に関する西側諸国による制裁対象にも原子力産業は対象に入れられないことなど。

10頁ほどにスパッとまとめられたレポートなので、僕のようなど素人にも読みやすくて助かる。

[J0402/230919]

神島二郎『近代日本の精神構造』

岩波書店、1961年。

序説 問題の所在
第一部 天皇制ファシズムと庶民意識の問題
第二部 「中間層」の形成過程
第三部 日本の近代化と「家」意識の問題

神島は、自ら軍隊生活と敗戦を経て、天皇制と戦争の問題に向き合わざるをえなかった人物。日本的な近代化の「歪み」という問題は、この頃の知識人共通のものだったように思うが、今はもう放置されている感。

神島は、〈一系型家族〉と結びついた〈第一のムラ〉が崩壊する中、その不安を吸収する形で、明治以降の近代日本が原理としたのは〈第二のムラ〉であり、その基軸としての天皇制であったと見る。そこでのふるさととは実は「回想の世界」のものでしかない〈第二のムラ〉から帰結するものは、従来型の「家」でもなく、西洋的な個人主義でもなく、〈独身者本位〉の社会構成にすぎないのだいう。

天皇制ファシズムとも特徴づけられている近代日本の社会原理は、従来の「家」意識を否定するのではなく、そうした「家」意識に根ざしつつそれを超越・離脱するようなしかたで成立したとみるところがポイント。

ハーンの記述から、戦地へ出征していく青年の心理についてこのように述べる。「まことに、青年の言葉には、「家」意識のすべての特徴が見出される。子孫の追慕、家名の保持、供養の永続、死後の共生、どれひとつとして「家」意識のあらわれでないものはない。ただ違うのは、第一には家産の保持や家業の永続が欠けていることであり、第二には記念碑の建設や国民の崇敬を信じて「天皇陛下の御為に死にたい」といっている点である。そこでは、個人性への強い関心が伏在しており、国家との結びつきによって「家」からの離脱がなされている。それは、「家」の制度および生産形態を正面から否定するものではなく、まさに離脱によって個人性への関心を充足させたものと考えられる」(314)

現在は、戦時体制をその当時あるいはその少し前段階のスパンからのみ捉える見方が優勢で、より以前からの変容をたどったこの種の議論は乏しくなってしまったが、やはり必要。ただし、神島の議論の難点は、「自然村」という言葉に示されているように(実際にはこの言葉には複雑なニュアンスが込められているにせよ)、「明治以前」の日本の社会秩序や宗教(とくに神道)を固定的・超歴史的に捉えすぎているところ。その意味では、丸山真夫から安丸良夫のラインの議論によって修正されなければならないだろう。そういえば、安丸良夫は、家の観念について何を語っていたのだっけ。

[J0401/230914]