Month: September 2024

羽賀祥二『軍国の文化』

副題「日清戦争・ナショナリズム・地域社会」上・下巻、名古屋大学出版会、2023年。

 日清戦争期における、戦勝への熱狂的で国民的な高揚「ジンゴイズム」から、「軍国の文化」が生み出されていった様子を描く。「戦争へ向かう国民感情の動き、開戦後に顕著になった戦争支持の熱狂的動きは、戦争を遂行した政府指導者をも驚かせるに足るものとなった」(7)。

 「軍国の文化」とは、〈記念〉・〈招魂〉・〈顕彰〉という三つの概念をキーワードとするもので、「日清戦争後には戦争協同体が構築され、戦病死者と社会(国民・諸団体)との間に「再生と共生の協同体」が創出されたと考えたい」(33)。内乱の戦死者をまつった靖国神社が、国民的な神社になったのも、本書によれば、この日清戦争がきっかけである。こうした「軍国の文化」が、後の日論戦争や日中戦争の開戦にもつながっていく。また、たとえば新聞の普及であったり、運動会といった行事の実施であったり、さらにはそれまで一般的ではなかった「記念」という概念の流布であったりと、日清戦争の影響は広く社会のあちこちに及んでいたことがわかる。

 本書の本当の価値は、理論的な一般化というよりも、地道な作業に支えられたぶ厚い社会史的記述にある。また、日露戦争や太平洋戦争とも切り離して、「軍国体制」と一括りにしてしまわずに、ひたすら日清戦争期に焦点を当てた研究である点もポイントと言える。

 本書をながめながら、頭に浮かんできたのは、(今がたまたま9月ということもあり)最近とみに話題にあがることの多い、関東大震災のときの朝鮮人の虐殺。そこには明らかに、日清戦争の経験やそのとき以来の好戦的雰囲気が関わっている。もちろん、関東大震災は1923年で、あいだには日露戦争があった。ただし、日清戦争における中国人に対する日本人の姿勢と、日露戦争におけるロシア人に対するそれとでは、かなりの違いがあったと想像される。本書には、「ちゃんちゃん坊主」や「豚尾兵」などと呼び、「非文明的」であるとした中国人への当時の蔑視のようすがよく描かれている。豚尾とは、弁髪のことを意味している。

 「日清戦争は朝鮮を保護し、清国を膺懲するのみならず、維新以来列強の「暴状」を甘受し、万国公法に制約されてきた鬱屈を晴らす爆発的闘争でもあった」(898)という。ここには、当時の日本社会が抱いていた、ねじまがったかたちでの朝鮮・中国観と,ヨーロッパ観をうかがうことができる。ロシアはロシアで、「ヨーロッパの田舎」という理解が、日本人のロシア人観を複雑にしていたとは思うが、それでも「西洋文明」に属する側として観念されていただろう。本書が紹介している、日清戦争当時のあれこれの戦地レポートでは、日本の軍隊の文明度を測る欧米の視線を気にしつつ、その裏で中国人に苛烈な扱いを(ときに、か、しばしば、か、それは検証の余地があるが)する日本兵のようすが伝えられており、そこには関東大震災のときの描写によく似たところがあるのである。

なお、関連の文献として、日本における中国人の表象については、金水敏『コレモ日本語アルカ?』(岩波現代文庫、2023年)が面白く読める一冊。

序 章
     1 日清戦争の開始
     2 日本国民の戦争熱と「ジンゴイズム」
     3 「敵愾心」・「協同心」・「忠誠心」
     4 「軍国の文化」の構造
     5 日清戦争の社会史的研究
     6 本書の課題と内容

  第Ⅰ部 第三師団の戦争と戦場の兵卒

第1章 戦時編制と動員体制
     はじめに
     1 日清戦争前の徴兵制と第三師団
     2 兵員召集体制の構築
     3 開戦直前の軍事演習
     4 第三師団の戦時編制
     5 兵員召集の実態
     むすびに

第2章 第三師団の出征と戦闘
     はじめに
     1 日本軍の戦略
     2 第三師団管下諸隊の出征
     3 平壌の戦い
     4 鴨緑江渡河とその後の戦闘
     5 海城をめぐる攻防戦
     6 牛荘から田庄台へ
     むすびに

第3章 征清軍の凱旋と損害
     はじめに
     1 第三師団諸隊の帰国
     2 郷里へ凱旋する兵卒
     3 第三師団の損害
     むすびに

第4章 兵卒たちの戦争
     はじめに
     1 兵卒の出征風景
     2 兵卒と郷里
     3 兵卒の従軍記録
     4 行軍を阻むもの —— 糧秣と気候
     5 疾病と衛生
     6 兵卒が見た戦場の光景
     むすびに

第5章 戦場における日本軍と住民
     はじめに
     1 日本軍の清国侵入と住民
     2 安東県民政庁の開設
     3 「堯舜の政」・「湯武の兵」
     むすびに

  第Ⅱ部 戦争と死者

第6章 将兵の死と葬送
     はじめに
     1 遺骸の埋葬と墓地
     2 共葬墓地の設置と管理
     3 戦病死者の公葬の執行
     むすびに

第7章 戦病死者の招魂祭
     はじめに
     1 戦場における招魂祭
     2 靖国神社臨時大祭
     3 第三師団の招魂祭
     4 表忠会と招魂祭
     5 「無名無数ノ英雄」を祀ること
     むすびに

第8章 戦争と仏教教団
     はじめに
     1 開戦と仏教教団
     2 将兵への説教
     3 従軍布教使の派遣とその活動
     4 曹洞宗僧侶水野道秀の活動
     5 戦後の仏教教団の動向
     6 仏教と軍隊の関係
     むすびに

第9章 仏教忠魂祠堂の建立
     はじめに
     1 浄土宗の戦争協力
     2 建立に至る経過
     3 忠魂祠堂の竣工
     4 『忠魂霊名録』の編纂
     むすびに

第10章 戦地における遺骨回収問題
     はじめに
     1 真言教団と日清戦争
     2 遼東半島還付と遺骨回収問題
     3 真言宗従軍布教使の遺骨収集活動
     4 護国寺多宝塔・忠霊堂の建立
     むすびに

第11章 「軍国」の文体
     はじめに
     1 招魂祭の祭文・弔文
     2 祭文・弔文の文範
     3 祝祭弔文集の刊行
     4 日清戦争前後の軍人用書
     むすびに

補論1 旧陸軍墓地の合葬墓
     1 合葬墓の起源
     2 豊橋旧陸軍墓地の合葬墓と個人墓
     3 名古屋旧陸軍墓地の合葬墓と個人墓
     4 第五師団陸軍墓地と台湾の合葬墓

  第Ⅲ部 戦勝祝祭の空間

第12章 日清戦争と戦勝祭典
     はじめに
     1 最初の戦勝祭典 —— 広島大本営における平壌大祝宴会
     2 旅順口陥落戦勝祭典 —— 12月9日東京上野公園
     3 名古屋における戦勝祭典
     4 明治天皇の東京凱旋
     むすびに

補論2 1890年代の国民祭典
     1 国民祭典の起源
     2 大婚二十五年祝典の挙行
     3 国民の祭典参加

第13章 戦勝のシンボル
     はじめに
     1 霊鷹の出現
     2 霊鷹出現譚の流布
     3 蜻蛉の戦勝神話
     4 征服のイメージ —— 三韓征伐と桃太郎伝説
     むすびに

第14章 鎮魂の音
      —— 岐阜市権現山の戦勝記念鐘について
     はじめに
     1 旅順口占領と岐阜県内の動向
     2 戦後の凱旋祝賀会
     3 戦勝記念鐘の建立の経過
     4 戦勝記念鐘の撞初式
     むすびに

補論3 「軍歌の帝」明治天皇
     1 「軍歌の帝」
     2 軍歌集の発刊
     3 軍歌と行軍
     4 日清戦争と軍歌
     5 横井忠直の『討清軍歌』
     6 「国楽」制定論

補論4 戦争民俗考
     1 戦争と民俗
     2 徴兵除け・弾丸除けの信仰
     3 戦争絵馬

  第Ⅳ部 戦争記念碑論

第15章 軍・師団の戦争記念碑の建立
     はじめに
     1 第一軍戦死者記念碑の建立
     2 戦死者記念碑建立の目的
     3 広島凱旋記念碑の建立
     4 清国海城の第三師団記念碑
     むすびに

第16章 軍都の戦争記念碑
      —— 豊橋第十八連隊と神武天皇銅像記念碑について
     はじめに
     1 豊橋第十八連隊の日清戦争
     2 招魂祭の挙行
     3 軍人記念碑の建立
     4 神武天皇か明治天皇か
     5 銅像記念碑をめぐる議論
     むすびに

補 註 軍人記念碑の建立に関する補足

第17章 戦争記念碑の裾野
      —— 郡町村の記念碑
     はじめに
     1 愛知県内の日清戦争記念碑
     2 幡豆郡内の記念碑
     3 記念碑の立つ場所
     4 記念碑建立の契機と過程
     むすびに

第18章 軍夫とその招魂記念碑
     はじめに
     1 軍夫の規律問題
     2 軍夫をめぐる紛争
     3 軍夫招魂碑の建立
     4 軍夫への慰問・援護
     むすびに

第19章 戦争記念碑の系譜
     はじめに
     1 戦争記念碑の始まり
     2 愛知県内の西南戦争記念碑
     3 名古屋鎮台の西南戦争記念碑
     4 全国各地の記念碑建立の動向
     5 碑文集の刊行 —— 西南戦争から日清戦争へ
     むすびに

補論5 記念碑建立への法的規制
     1 記念碑建立の規則
     2 神社境内への記念碑建立をめぐる問題
     3 日露戦争時の建碑問題

第20章 中国における日清戦争の墓碑・記念碑
      —— 旅順口・金州・錦州
     はじめに
     1 遼東半島における戦闘
     2 旅順口占領と虐殺事件
     3 遼東半島の甲午戦争記念碑
     4 錦州の「昭忠祠」と「勅建昭忠祠碑」
     むすびに

  第Ⅴ部 軍国のメディアと社会の倫理

第21章 従軍記者と戦争報道
     はじめに
     1 戦争開始と新聞界
     2 従軍記者の派遣
     3 従軍記者鈴木経勲
     4 戦況報告演説会と幻灯器
     5 戦争芝居と従軍記者
     むすびに

補論6 従軍記者正岡子規と清国金州の句碑
     1 子規の従軍
     2 子規の句碑
     3 金州における子規
     4 子規と三崎山の墓碑

第22章 宣伝される忠勇者たち
     はじめに
     1 原田重吉 —— 平壌玄武門の英雄
     2 第十八連隊長佐藤正大佐 —— 牛荘での戦傷
     3 忠勇伝の刊行
     4 振天府の設置
     5 兵卒の事績の表彰
     むすびに

第23章 兵卒・遺族と地域社会
     はじめに
     1 兵卒と地域社会 —— 徴兵慰労会について
     2 出征者家族への援護体制
     3 出征下士兵・戦病死者への慰労金
     4 国民的義捐運動の展開
     5 戦病死者と遺族の処遇問題
     むすびに

第24章 「義」の民族協同体
     はじめに
     1 清国兵への視線
     2 清国兵俘虜の取り扱い
     3 清国負傷兵の救護行動と国際的評価
     4 「義」の民族協同体
     おわりに

第25章 未来の兵士たち
     はじめに
     1 戦時下の子供たち
     2 運動会と尚武の気風
     3 子供のための戦争の話
     4 戦争と国民教育
     むすびに

終 章 「軍国主義」の起源をめぐって
     1 日清戦争とナショナリズム
     2 世界史の中の日清戦争
     3 日清戦争と明治維新
     4 「軍国主義」の起源
     5 ジンゴイズムの行方
     6 戦争体験の諸相

[J0509/240904]

関なおみ『保健所の「コロナ戦記」』

副題「TOKYO 2020-2021」、光文社新書、2021年。コロナ対応の現場組最前線ともいうべき、東京都の保健所で働いた、もしくは戦った公衆衛生医師による記録。ぜんぜん医療とかの関係者じゃない僕も、当時の社会全体の空気感をフラッシュバックのように思い出してクラクラする。

はじめに――ミッション・インポッシブル(もしくは、闘う公衆衛生医師)――
プロローグ 1月23日深夜から東京は戦争状態に突入した
第1章  第1波 2020年1月から6月まで
 1月 人手不足にまつわるエトセトラ
 2月 あなたは検査の対象ではありません
 3月 病院が見つかりません!
 4月 宿泊療養始めます
 5月 おまえの区では何人患者が出てるんだ!
 6月 何を根拠に?
第2章 第2波 7月から11月まで
 7月 「夜の街」って何だ
 8月 COCOAなんて大嫌い
 9月 インフルエンザとの同時流行を踏まえた対応
 10月 住民接種、本当にやるんですか?
 11月 言葉が通じません……
第3章 第3波 12月から2021年3月まで
 12月 どうか課長を眠らせてあげてください……
 1月 縮小ではありません!
 2月 嘘をついたら30万円、病院から逃げたら50万円
 3月 そして誰もいなくなった
第4章 第4波・第5波 4月から現在
 4月 天国に違いない
 5月 常識的に考えて……
 6月 検証してみた。
 7月 開催までの短距離走
 8月 最後の聖戦
 9月 トンネルの向こう側
最終章 残された課題
 1.現実的な課題
 2.より大きい視野で検討すべき課題
 3.結局はマネジメント――都レベルでの課題
 4.古くて新しい保健所のこれから
巻末特別対談「病院から見たコロナ、保健所から見たコロナ」
大曲貴夫(国立国際医療研究センター病院)×関なおみ
あとがき――叶えられた祈り――

風評被害やそれを恐れる心理、押しよせる電話や問い合わせ、毎日の陽性者の全数報告やマスコミ対応のための仕事(そういや、島根県でもYouTubeで感染者ひとりひとりについて説明する記者会見を毎日開催していたな・・・・・・)、ワクチンに関するあれこれの対応、COCOAのような新しいシステムの導入、そんなところにもって、東京オリンピックの延期やら開催やら・・・・・・。

戦争において戦闘能力以上に兵站や補給が大事、ということに似て、感染症や患者そのもの以上に、それ以外の人々の行動や仕事のしくみが決定的に重要だということがわかる。

トータルでみると、おそらく日本社会はうまく乗りきった方で、しかしそれは責任感ある人たちの「火事場の馬鹿力」のおかげであろうと思う。今回の教訓を踏まえてきちんとシステムを整えておかないと、人も余裕もすり減っていくばかりで、次はこうはいかない。日本社会と言えばずっと、そんなことばかり多いわけだから。

[J0508/240903]

玉木敏明『近代ヨーロッパの形成』

副題「商人と国家の近代世界システム」、創元社、2012年。

序章 近代ヨーロッパ形成を読みとく視点
  一 近代ヨーロッパはどのようにして形成されたのか
  二 「大分岐」論争――ヨーロッパとアジア、経済成長の分岐点
  三 産業革命の発生条件――なぜイギリスだったのか
  四 商人と国家の「近代世界システム」論
第一章 商人と国家の「近代世界システム」――グローバルヒストリーとの関係から
  一 グローバルヒストリーの潮流
  二 グローバルヒストリーと近代世界システム
  三 近代世界システムとヨーロッパ
  四 国際的な商人ネットワークと主権国家
第二章 商人ネットワークの拡大――アントウェルペンからロンドンまで
  一 アントウェルペンの役割
  二 世界最大の貿易都市アムステルダム
  三 ロンドンとアントウェルペン
  四 商人のネットワークからみた近代世界システム
第三章 国家の介入と経済成長――情報からみたオランダとイギリス
  一 モノの経済史から情報の経済史へ
  二 ディアスポラと情報伝播
  三 アムステルダムの役割
  四 ヘゲモニーの移行
  五 情報からみたグローバルヒストリーと近代世界システム
第四章 主権国家の成立――財政と商業からの視点
  一 主権国家をめぐって
  二 肥大化する国家財政
  三 国家と商業との関係
第五章 大西洋貿易の勃興とヨーロッパの経済成長
  一 大西洋経済の勃興
  二 大西洋貿易の特徴
  三 各国の大西洋貿易
第六章 近代世界の誕生――フランス革命からウィーン体制期の経済史
  一 イギリス産業革命期の経済成長は遅かった
  二 ヨーロッパ経済の変化
  三 商人ネットワークの変化
  四 ウィーン体制の経済的意味
終 章 近代ヨーロッパの形成――国家と情報と商人と
  一 近代ヨーロッパの形成過程
  二 情報が支えたイギリス帝国――「ジェントルマン資本主義」再考

「近代世界システム」を生みだした近代ヨーロッパはいかにして形成されたのか。著者はそれを、オランダにはじまる商人ネットワークの発展が、イギリスにおいては国家形成とともに進んだことに求めている。「商人と国家の織りなす歴史こそ、新しいタイプの近代世界システムである」(35)。

 本書出版当時の歴史学では、ウォーラーステインよりもグローバル・ヒストリー論の方が議論が盛んだというが、著者は、それが第三世界の収奪を軽視している点で、むしろウォーラステインの議論の肩をもつ。
 また、もうひとつのトレンドであるケネス・ポメランツ「大分岐」論は、近世以前まではヨーロッパは特別な立場になかった点を強調し、1500年から1800年の間に、ヨーロッパがアジアより優位に立つようになったことを主張するものである。しかし、諸種の「大分岐」論は、大西洋経済や石炭を用いた産業革命の影響を重視するが、それでは十分ではないと、本書著者はみる。
 ウォーラーステインに対する著者の批判も、「大分岐」論に対するものと近い。ウォーラーステインはたしかに、グローバルな視点から、原材料の輸入国を搾取・収奪する「低開発の開発」といった視点を提示した。しかし、「近代世界システム」の成立に対して重視されている産業資本主義とは、19世紀後半になってようやく台頭したものである。要するに、ウォーラーステインの「近代世界システム」という発想の方向性は正しくても、その成立条件を正確に捉えることができていない。具体的には、生産に対する流通という契機を軽視しており、国家や地域をむすぶ媒体としての、国際的な商人のネットワークの意義に、十分な配慮がなされていないとする。

 こうして本書著者は、近代世界システムを起動させた近代ヨーロッパの成立について、商人と国家というふたつの契機を強調する。商人が金融と情報のネットワークの担い手となり、それを大規模に展開するために必要なインフラを、国家が用意したのだというストーリーを描いている。
 国家がとくに戦争を通じてその存在を確立し、経済的ネットワーク(ひいては近代世界システム)を拡大させたという観点について、著者がヒントを得たとされているのは、スウェーデンの経済史家ラース・マグヌソンの議論である。マグヌソンは、「国家の見える手」として、国家が経済に介入することで産業革命が発生したと論じている。また、そのことは、各国が戦争遂行のために多額の借金をした結果、国家財政の規模が急速に拡大したことと関連しており、ジョン・ブルーワは『権力の腱』にて、そうした国家のありかたを「財政=軍事国家」と呼んでいる。

 以上、著者の議論の位置づけであったが、より具体的な内容として、まずふたつの軸のうちのひとつである、商人のネットワークの形成と変遷に関し、以下に抜き書きを並べておく。
 はじまりは、16世紀中頃にはじまった「アントウェルペン商人のディアスポラ」に置かれている。「アルトウェルペン商人が、ロンドンとアムステルダムに移住し、この三都市の関係が強まっていくことが、16世紀中葉~17世紀前半の北方ヨーロッパ経済では非常に重要な出来事であった。ロンドン、アルトウェルペン、アムステルダム間の商人の移動は大変活発になり、一つの経済圏が生まれたのである」(88)。
 16世紀後半から17世紀、アムステルダムの繁栄。「近世のオランダは宗教的寛容の地として知られ、とりわけアムステルダムでカトリックもプロテスタントもアルメニア人もユダヤ人――とくにイベリア系のセファルディム――もかなり自由に経済活動に従事できたのは、オランダやアムステルダムにとって何よりも商業活動が重要だったからである。・・・・・・アムステルダムを通じて、ヨーロッパのさまざまな宗教・宗派に属する商品の取引が可能になったと考えるべきであろう。それゆえ、同市には多種多様な商人の商業技術が蓄積された。なかでも大事だったのは、おそらくハンザとイタリアの商業技術の融合である」(105-106)

 戦争の時代、「危機の17世紀」。「フランス革命・ナポレオン戦争期のこの三都市〔アムステルダム、ロンドン・ハンブルク〕の関係がきわめて重要であった」(196)。ハンブルクもまた、もともとは「アントウェルペン商人のディアスポラ」にて発展してきた都市のひとつである。「18世紀になると、アムステルダムの地位は低下する。しかし、ヨーロッパ外世界、とりわけ新世界、ついでアジアとの貿易関係が強化される。そうなるとアムステルダムだけでは増大する貿易量・金融取引に対応することができず、ロンドンとハンブルクが台頭する大きな要因となった。ロンドンがイギリス帝国の拡大と結びついていたことはよく知られるが、ハンブルクは中立都市という利点を活かし、他都市が交戦中であっても、貿易を続けることができた」(197-198)。

「オランダの「黄金時代」は17世紀中頃であり、他の国々の中央集権化が進んでいなかったので、オランダは「ヘゲモニー国家」となれたのかもしれない。しかし他国が保護主義政策をとり、中央集権化を進めると、オランダの政治制度は時代にあまりそぐわなくなっていった」(203)。また、「ハンブルクとロンドンの競争は、ナポレオン戦争が終了した1815年になってようやく、ロンドンの優位で決着がつく。それは、経済活動に国家が強力に介入することが、イギリスに成功をもたらしたことも意味した。いいかえるなら、「財政=軍事国家」としての成功が、物流面においても、イギリスを勝利に導いたのである」(203)。

「電信の発達は、情報伝達スピードという点で、グーテンベルク革命以上の革新をもたらした。・・・・・・情報伝達方法の変化は、金融面でも根本的変革をもたらした。19世紀末に電信がアジアに普及しなければ、おそらくはロンドンを中心とする国際金本位制はこれほど速く世界を覆い尽くすことはできなかったはずである」(216-217)。しかるに、「イギリス帝国の金融市場の発展は、電信なしでは考えられなかった。しかもイギリスの電信会社は当初は民間企業であったが、1870年からは国有企業となった。20世紀前半にいたるまで、イギリスの電信事業は、政府主導型の公益事業であった。ここからも、政府が経済活動のインフラ整備に大きくかかわっていたことがわかる。ロンドンは世界の情報の中心であり、それゆえに金融の中心となりえた」(218)。

 商人ネットワークの展開を中心に抜き書きをしたが、もうひとつの軸とされているのは、近代国家の成立・膨張である。
 「近世ヨーロッパでは、「軍事革命」とよばれる現象がおこった。戦争のための出費が膨大になり、17~18世紀のヨーロッパでは、国家支出に占める戦費の比率が急激に上昇した。この時代のヨーロッパ諸国を形容するに際し、もっとも適切な用語は〔ジョン・ブルーワいうところの〕「財政=軍事国家」であろう」(123)。「近世ヨーロッパの財政需要は軍事支出の急増によってなされたものであるのだから、「軍事革命」と近代国家の出現とは表裏一体の関係にあった。国家の戦争遂行能力とは、かつて考えられていたように大規模な官僚制度を創出できる能力にかかっているのではなく、戦費調達能力にかかっているという考え方が、こんにちの歴史学界では支配的になりつつある。いわば、軍事革命が財政支出を増大させ、それが近代国家形成へのインパクトになったのである」(123-124)。

「主権国家の誕生により、「国家」の役割がそれ以前の時代と比べて非常に大きくなった。18世紀になると、イギリスに代表されるように、いわゆる国民国家が形成されていく。そして主権国家の生誕に際し、国境のない商人の世界を通して流れる資金が重要な役割を果たした。いわば「実態」としての国境なき商人の世界が、フィクションとしての「国民国家」の形成に大きく寄与したということができよう」(142)。「近代国家の形成には、主として軍事支出の増大にともなう資金の獲得が必要とされた。それは、国境のない商人の世界を通し、国境を越えて流通する資金の流通があってはじめて可能になったのである。・・・・・・その「その最大の成功例がイギリスであった」(143)。

「内国消費税が税の中心であったイギリスは、借金をしても、経済成長率以上に税収が増えたのでそれを返済することは比較的容易だったのに対し、地租に基盤をおくフランスは、経済が成長したとしても税収は増えず、借金の返済は容易ではなかったのである」(143-144)

 そのほかのメモ。

「長いあいだヨーロッパ最大の工業製品であった毛織物は、アジアのような暖かい気候には適さない。それに対し綿は、寒い地域でも、暑い地域でも着ることができる。しかも毛織物と異なり、何回も洗うことができる。そのために、世界史上初の「世界商品」となった。近年のヨーロッパの経済史研究ではこの意義が化論じられる傾向にあるが、当時、綿以外の商品では世界的な需要は発生せず、おそらく産業革命は発生しなかった」(26)

「おそらく一般的に考えられているのとは異なり、新世界からヨーロッパが輸入する商品が大きく増えたのは、ほとんどの国で、18世紀、とくにその後半のことにすぎなかった。・・・・・・しかしまた忘れてはならないのは、膨大な費用をかけて形成された大西洋経済なしには、産業革命もヨーロッパの台頭も考えられないということである」(155)。

「イギリスの産業革命は、あっという間に世界を変えたわけではない。かつて考えられていたのとは違い、産業革命期イギリスの経済成長率は、「革命」というほど高くはなかったのである。田園的なイギリスがあっという間に工場に取り囲まれた国になったという説は、こんにちでは否定されている。18世紀後半のイギリスの経済成長率は、ゆるやかなものであった」(184)。

[J0507/240831]