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川島秀一『いのちの海と暮らす』

副題「日本の沿岸漁業民俗誌」、冨山房インターナショナル、2022年。
スズキ、メバル、タラ、カツオ、サメ、カレイ、汽水域のシロウオ、それにクジラやイルカ、トドやオットセイなどの漁の世界を、漁師の視線に寄り添いながら詳らかに描く。そこには、サラリーマンのものとはもちろん、農業のそれともまったくちがった論理がある。

第一章 漁師が語る海
 1 スズキ釣りは辛抱釣り
 2 海の花咲かせるメバル釣り
第二章 漁師が書く海
 1 飛島の「山帳」における書承
 2 村上清太郎翁の漁業記録
第三章 汽水域と沿岸漁 
 1  湾史における汽水域
 2 シロウオ漁の生活誌
第四章 沿岸のクジラ捕り 
 1   沿岸小型捕鯨の民俗
 2 追尾士の捕鯨記録
 3 三陸沿岸の海獣漁
第五章 日本の沿岸広域漁業 
 1 追込み漁の自然観
 2 ケンケン漁の始まりと伝播

著者が迫ろうとする漁師たちの民俗は、前近代のそれには限らない。新しい技術や機械にも、民俗はあるとみている。新しい漁法が開発され伝播する――著者はこれも「伝承」と呼ぶべきだとする――しかたは、農村のそれとはやはりちがう種類のものだろう。範囲においても日本国内にもかぎられていないし、おそらくは速度についても、ずっとダイナミックな様相。

さまざまな「伝承」を経て開発されてきたカツオなどのケンケン漁について、「ケンケン漁などの曳き網漁は、小さな漁業であったからこそ、大きな社会の変化に対して生き残ってきた。さまざまな個人的な工夫で漁労技術を発達することができたのも、人間の工夫が目に見えて現れやすい小型の漁業であったからである。齢を重ねてもでき得る漁であり、これがあるために、個人や一家族の通年の収入を安定させてきた面もある。ことさらに海から生産力を上げなくても、目の前の海で生活できる幸せこそ守るべきものと思われる」(253)。

「おわりに」では、2018年の水産改革や、そこにおける数値目標の設定という管理方法に異を唱えている。漁師の生き方を見つめつづけ、いまは自分自身も漁師として福島に暮らす著者のことばは重い。

[J0549/241218]

ジル・ドゥルーズ「追伸」

副題「管理社会について」、宮林寛訳『記号と事件:1972-1990年の対話』河出文庫、2007年所収、356~366頁。訳本の定本は1992年。この論考自体は1990年発表。

〔規律社会〕
● 18~19世紀、20世紀初頭に頂点。第二次世界大戦後に壊滅。
● 監禁の環境を組織し、個人は閉じられた環境から閉じられた環境へと移行をくりかえす。家族、学校、兵舎、工場、ときどき病院や監獄。
● 「しかしフーコーは、規律社会のモデルが短命だということも、やはり知り尽くしていた」(357)。

〔管理社会〕
● もはや、あらゆる監禁の環境は危機に瀕している。「管理」とは、バロウズが提案した呼称。
● ゼロからやりなおす監禁環境の変移とは異なり、管理機構では変移は分離不可能。
● 工場には、企業が取ってかわる。「企業は、工場よりも深いところで個々人の給与を強制的に変動させ、滑稽きわまりない対抗や競合や討議を駆使する恒常的な準安定状態をつくるのだ」(359)。
● 「工場は個人を組織体にまとめあげ、それが群れにのみこまれた個々の成員を監視する雇用者にとっても、また抵抗者の群れを動員する労働組合にとっても、ともに有利にはたらいたのだった。ところが企業のほうは抑制のきかない敵対関係を導入することに余念がなく、敵対関係こそ健全な競争心だと主張するのである」(359-360)。
● 「じじつ、企業が工場にとってかわったように、生涯教育が学校にとってかわり、平常点が試験にとってかわろうとしているではないか。これこそ、学校を企業の手にゆだねるもっとも確実な手段なのである」(360)。
● 「規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやりなおさなければならなかったのにたいし、管理社会では何ひとつ終えることができない」(360)。
●「規律社会と管理社会の区別をもっとも的確にあらわしているのは、たぶん金銭だろう。規律というものは、本位数となる金を含んだ鋳造貨幣と関連づけられるのが常だったのにたいし、管理のほうは変動相場制を参照項としても、しかもその変動がさまざまな通貨の比率を数字のかたちで前面に出してくるのだ」(361)。
●「昔の君主制社会は、てことか滑車とか時計仕掛など、シンプルな機械をあやつっていた。ところが近代の規律社会はエネルギー論的機械を装備し、受動的な面からいうとそこにはエントロピーの危険があったし、能動的な面では怠業の危険をともなっていた。管理社会は第三の機械を駆使する。それは情報処理機器やコンピューターであり、その受動面での危険は混信、能動面での危険はハッキングとウイルスの侵入である」(362)。
● 「いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである」(363)。

[J0549/241214]

ジークムント・フロイト「喪とメランコリー」

十川幸司訳、講談社学術文庫『メタサイコロジー論』、2018年所収。訳者解説によれば、本論文「喪とメランコリー」の初稿は1914年に書かれ、論文として発表されたのは1917年。なお、タイトルにもある「喪」は、ドイツ語Trauer の訳。

グリーフ研究の出発点ともされる本論文だが、喪よりもメランコリーに重点がある。「今度はメランコリーの本質を喪という正常な情動との比較を通して明確にすることを試みようと思う」(131)って冒頭に書いてあるやん。というか、論の全面を通して、そもそも治療のことよりも、人間精神を把握したい、そのための概念をつくりたいという関心が勝っているように思われる。喪のことは、そのための一材料にすぎないという印象。

メランコリーとは、正常な情動である喪の、ある種の逸脱形態である。「正常な状態とは、現実に対する尊重が勝利を保つことである」(133)と言われる。フロイトは内的な精神世界の探求者とみなされてきたし、それが嘘というわけでもないだろうが、ここでは、ごく常識的なかたちで現実/非現実を区別しているようにみえる。現実なるものの境界の曖昧さを意識しているようには思えない。

メランコリーには、対象の喪失、両価性、自我へのリビドーの対抗という3つの条件があげられている(152)。対象の喪失だけならば、喪と共通しているというわけだろう。

「メランコリー患者には、さらに常軌を逸した自我感情の低下と顕著な自我の貧困化が生じるが、喪の場合にはそのような特徴は見られない。喪の場合は世界が貧しく空虚であるが、メランコリーの場合は自我それ自体が貧しく空虚になる」(135)。

メランコリー患者に見られる自己避難について。「自己批判を、愛する対象への非難が方向を変えて患者の自我に向けられたものと理解するなら、私たちはメランコリーの病像の鍵を手に入れたことになる」(138)。「リビドーは、そこで自由に使われるのではなく、放棄した対象を自我に同一化させるために用いられる。・・・・・・対象喪失は自我喪失に変わり、自我と愛する人との葛藤は、自我批判と同一化によって変化した自我の内的分裂に変わったのである」(140)。

「喪は自我に対象を断念させるために対象の死を明らかにし、生き残ることの利得を自我に示す。それと同様に、メランコリーのあらゆる両価性の葛藤は、対象に対するリビドーの固着を緩めるために対象を貶め、価値を落として、いわばそれを打ち倒すのである」(151)。

実は、喪については上に挙げたくらいのことしか書いていない。少なくとも本論文において、フロイトにおける喪の概念は、メランコリーという症状を検討するために引きあいに出されているものであり、探究の対象ではなく最初から前提されているものにすぎない。フロイトの探究のまなざしは、メランコリーやヒステリーといった歪んだかたちの精神現象に向けられているが、それは、その歪み方を通じてこそ、表面からは隠された心理的メカニズムがみえてくるという発想にもとづくものではないか。わざわざ、「喪という正常な情動」を取り上げるのではなくて、メランコリーの方を主題として取り上げようとする問題設定のしかたにそうしたフロイトの発想法を感じる。

[J0548/241213]