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島薗進『国家神道と日本人』

岩波新書、2010年。ちょっと読み直しを。

第1章 国家神道はどのような位置にあったのか?
第2章 国家神道はどのように捉えられてきたか?
第3章 国家神道はどのように生み出されたか?
第4章 国家神道はどのように広められたか?
第5章 国家神道は解体したのか?

「もちろん皇室祭祀自体は長い歴史をもつ。だから、これまでも小規模な皇室神道は存在した。しかし、明治維新によって従来とは質的に異なる大規模な皇室神道が新たに創出されたといってもよいだろう。しかもそれらは宮廷社会でごく少数の人々の関与のもとに行われていたこれまでのものとは異なり、大多数の国民の精神生活に深い影響を及ぼすものとなった」(23)。

「「公」の国家神道と「私」の諸宗教が重なりあうという二重構造的な宗教地形」(51)。これが「祭政一致」と「政教分離」の並存を可能にした(56)。「しかし、平時の国家神道の側からすると、この二重構造という前提の下で諸宗教が存在することは、むしろ必要なことでもあった。国家神道は「公」の国家的秩序について堅固な言説や儀礼体系をもっているが、「私」の領域での倫理や死生観という点については言葉や実践の資源をあまりもちあわせていない。また、「公」の領域でも、西洋由来の思想や制度のシステムの助けを借りなくては、存続しえないものだった。そこで日本文化の特徴を自覚的に考える人たちにとっては、国家神道と諸宗教や近代の思想・制度が支え合うことによってこそ、ある種の多様性を抱え込んだゆるやかな調和が成り立つ、そこに多神教的な日本文化の利点がある、と感じられる。日本の国体が美しいとされる一つの理由である。こうした精神状況は、そのまま第二次世界大戦後に流行する日本人論に引き継がれていく」(51)。

著者は「国家神道」の語を広めにとり、これを外延において、「神社神道」や教育勅語に示される「国体論」と一致するものとは考えない。「神社神道」・「皇室神道」・「国体の教義」の三要素を不可分のものとして指摘した村上重良の国家神道論とは異なり、戦前のある一時期を特徴づけるものである、現人神の観念を国家神道の必須要素とも考えない。

また、「天皇制イデオロギー」という概念を、次のように批判する。「歴史学の立場からの国家神道研究が皇室祭祀を軽視しがちであることと、「天皇制イデオロギー」の語に依拠する傾向が強いことは大いに関係がある。イデオロギーという概念に込められる意味は立場によって異なっているが、イデオロギーという概念に影響されて国家神道を捉え損なっている点では、神道指令の背後のアメリカ的な発想と、マルクス主義以来の「社会科学」的発想に相通じる点がある」(91)。

村上重良の国家神道理解批判として。「国家神道をまずは神社神道という宗教集団に関わること、また、宗教制度(宗教集団の政治的位置づけ)に関わることと捉えるとともに、他方では宗教集団とは別の「皇室神道」や「国体の教義」に関わることと理解しており、それらの関係が明らかにされていない」、「国家神道をもっぱら政府が国民に強制したものと捉えていて、国民こそが国家神道の担い手だったという側面についてあまりふれられていない」(139)。

村上重良『国家神道』における4区分、「形成期」「教義的完成期(帝国憲法発布~日露戦争)」「制度的完成期」「ファシズム的国教期(満州事変~敗戦)」。本書著者による修正案。呼称を「形成期」「確立期」「浸透期」「ファシズム期」とし、第二期と第三期の区分を日露戦争(1905)ではなく、大逆事件と明治天皇の死(1910年頃)とする。

靖国神社がもつ「実存的深み」について。「国家神道は仏教やキリスト教や天理教のような救済宗教と異なり、個人の運命に関わり死後の救いを約束したり、苦悩する個々人の魂に訴えかけるというような実存的深みの次元はさほどもっていない。国家神道と諸宗教との二重構造ということの中には、救済や死後の生、あるいは苦悩からの解放といった実存的な問題は私的な領域に本領がある諸宗教に任せ、国家神道は公的な秩序の領域を司るというような分業的な意味合いもあった。ところが若くして死んでいく兵士の運命に関わる靖国神社の場合は、避けがたく実存的な苦悩や癒し・慰めの次元が入り込まざるをえない。人々の心の奥深い部分をも揺り動かす力をもっているという点で、靖国神社は国家神道の中で特別な重みをもつ施設となった」(152)。この見方がどこまで妥当であるかは措いて、宗教による救済を論じ続けてきた著者らしい着眼。

本書の議論の目立った特徴、国家神道の戦後における存続。「第二次世界大戦後の国家神道はたとえ「解体」されたとしてもけっして消滅したわけではなかった。戦後の国家神道は二つの明確な座をもっていた。一つは皇室祭祀であり、もう一つは神社本庁などの民間団体を担い手とする天皇崇敬運動である。前者は見えにくい形で隠れているが現存の法制度の中での国家神道の核であり、後者はその核を見据えつつ国家神道的な制度を拡充していこうとする団体や運動体である。さまざまな政治・宗教・文化団体があり、さらに広く国民の間にゆきわたっている天皇崇敬や国体論的な考え方・心情がある。これらに支えられつつ、国家神道は戦後も存続し続けて今日に至っているのだ」(213)。

バルトの「空虚な中心」論への批判。「薄められた形ではあるが、明治維新前後から形成されていった国家神道はなおも存続している。そのことが見えにくくなっているからこそ、「空虚な中心」という言説が人気をよぶのだ」(222)。

僕自身による本書まとめ。日本人はしばしば無宗教だと言われる。しかし、それは「真空」のような状態なのではなく、「見えにくい」かたちで存続する国家神道の働きなのだ(「見えにくい国家神道」は本書にもある表現)。それは、本当の無神論とは異なるという意味で、日本社会が「世俗化していない」ことを示しているが、(けっして本書著者はこのような表現はとらないが)人々に適切に救済をもたらす真の社会的な宗教を排除する構造として、日本社会の公的領域を「世俗化」している歴史的-社会的背景を形成しているのだ・・・・・・、と。さあ、どうでしょう。

本書読解上の課題として、安丸良夫の所論との距離感を確かめておきたいところでもある。それから、国家神道の存続が語られている一方で、国家神道と諸宗教の「二重構造」のゆくえ、とりわけ戦後におけるゆくえについてははっきりとは書いていないようだ。

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佐藤弘夫『アマテラスの変貌』

副題「中世神仏交渉史の視座」、法蔵館文庫、2020年、原本は2000年。

プロローグ 神仏交渉論への視座
第1章 祟る神から罰する神へ
第2章 “日本の仏”の誕生
第3章 コスモロジーの変容
第4章 変貌するアマテラス
第5章 日本を棄て去る神
エピローグ ある個人的な回想
文庫版解説

古代から中世へ、「祟りをなす〈命ずる神〉から賞罰を下す〈応える神〉へ」。ただし、古代における祟りとは、必ずしも邪悪なものだったわけではなく、神意の表現一般であったが、意思の不可測性を特徴としていた。それが、仏教的世界観への日本の神祇の組み入れによって、神々の性質が変容していったのである(104 ff.)。

中村生雄の説を紹介して、「神を二つに分類し、賞罰の権限を行使することによって仏法を守護する由緒正しき神を「権社」、死霊・悪霊といった祟り神を「実社」とすることは、中世では仏教者を中心に一般化していたのである」(70、『日本の神と王権』)。

起請文に登場「しない」仏に注目するところが、著者一流の着眼。「起請文に勧請される神仏のなかで、圧倒的に数が多いのは日本の神である。そうしたなかに、少数ではあるものの、仏の名前を見出すことができる。もっとも頻繁に登場するのが、東大寺の大仏である。石山寺や長谷寺の観音なども起請文の常連だった。起請文の罰文では、誓約を破ったときに罰を与える存在として、これらの神と仏がまったく同列に勧請されているのである。それだけであれば、あまりにも常識的なことで、だれもあえて口にしないだけだ、といわれるかもしれない。しかし、わたしが不思議に思ったのは、起請文に決して名をみせることのない一軍の仏たちがいたことである。極楽浄土の阿弥陀仏は絶対に登場することはなかった。密厳浄土の大日如来もそうだった」(300-301、自著解説部分)

往生伝における阿弥陀仏の登場のしかたについて、「それは同時代の説話集について、現世利益の霊験譚が常に特定の寺の具体的な「仏」と不可分の現象として説かれていたことと、際立った対照をなしている」と指摘する(96)。「すなわちそこには、現世のさまざまな問題解決を担当するのがこの世界の形而下の仏であったのに対し、極楽へ導いてくれる主体は他界浄土の仏である、という当時の通年が存在していたのである」(96)。「この世界の形而下の仏」とは、〈日本の仏〉のことである。

中世の神仏のコスモロジー、「彼岸の仏と此岸の神仏という二重構造」。「本地垂迹とは、狭義の神と仏の関係のみに留まらず、此土の神仏を、他界の仏がこの世の衆生を救いとるために具体的な姿をとって出現したものとみなす思想だったのである」(101)。本地垂迹とはたんに仏と神を結びつけたのではなく、「人間が容易に認知しえない彼岸世界の仏と、この現実世界にある神や仏との結合の論理」なのであった(104)。

後世の神仏区分に囚われないよう、さらに進んで、「私たちは、〈神〉という言葉を神・仏・諸天・聖霊など人間を超えた存在するすべてを包摂するものと解釈した上で、以後、他界にあって来世・次生の救済を事とする仏を〈救う神〉、此土にあって賞罰を司る神仏を〈怒る神〉と定義することにしたい。神-仏という区分よりは、救済を使命とする彼岸の神=〈救う神〉と、賞罰を行使する此土の神仏=〈怒る神〉という分類の方が、当時の人々の実感に即した冥界の区分だったのである」(103)

「機能分化に基づく諸仏諸神の共存という理念は、国土のここかしこに神社仏閣があって、無数の神仏が並存していた日本中世の現実に対応し、そうした状況を追認する論理であったことは明らかである。神仏の選択を人間の側の主体的な判断に委ねるこのような理念のもとでは、個々の神仏の権威は著しく相対化されることは必至だった。それゆえ、こうしたコスモロジーからは、世俗のあらゆる権威を超越する神仏の至高性を強調するような主張は、生まれるべくもなかったのである」(132-133)。

中世におけるアマテラスの位置も、こうしたコスモロジー全体の中で理解されなくてはならない。「天照大神は確かに「日本」という限定された空間では「国主」であったかも知れない。だが、中世的なコスモス総体の中でみれば、所詮は日本の神々の筆頭でしかなかった。その外側と上下方向には、さらに広大な神仏の世界が広がっていたのである」(190)。しかもその「日本国主」の主張すら、他の多くの神々とその地位を争っていた。「いわば神々の戦国時代ともいうべきものが、神をめぐる中世の思想状況だったのである」(196)。

こうした中で、日蓮や親鸞の思想はやはり異彩を放っているが、次の指摘はおもしろい。「しかしここで重要なことは、神祇不拝という基本的立場を取る一方、鎌倉仏教の祖師たちはだれひとりとして神々の存在自体を否定しなかったことである」(213)。

日蓮にみられ、実はさらに時代を遡るという、国土守護の神が日本を見捨てて去るという「善神捨国」の理念。たまたま、島薗進『日本仏教の社会倫理』を読了したばかりなので、この「善神捨国」理念や、あるいは儒教的な徳治主義と、正法理念との関係が気になる。そういえば、『日本仏教の社会倫理』でも、「妙法蓮華経」の「妙法」とは「正法」の別訳であるとしつつ、日蓮の思想が取り上げられていたはず。

文庫版に付された、著者自身による解説も有益。とくに、黒田俊雄の顕密体制論を、「国家の存立と支配に果たす超越的存在の役割を的確に認識し」(297)、従来の鎌倉新仏教中心史観を(結果として)塗り替えた点で画期的と評価する一方、それは神仏の権威の利用を述べるだけで、「中世人がいだいていた神仏世界のリアリティの深層にまで踏み込むことはなかった」(298)と、著者自身の問題意識を説明している。

「前近代の人々の認識では、この世界の構成者は人間だけでなかった。・・・・・・中世以前の時代にまで遡れば、社会をもっとも根源的なレベルで突き動かしているのは人間ではなく、神仏の意志だったのである」(304)。「わたしたちが前近代の国家や社会を考察しようとする場合、その構成要素として人間を視野に入れるだけでは不十分である」(305)。

[J0495/240804]

島薗進『日本仏教の社会倫理』

岩波現代文庫、2022年、原著は2013年。なるほど、これはたいへん大胆な仏教解釈で、仏教界や仏教研究者の方々から反発がくるだろうことも分かる(たとえば、下田正弘氏による書評)。それでも、見失われてきた仏教の社会倫理の次元を評価しなおそうとする、著者の意図のポジティブさが本書の意義を保証している。また、それ自体が広大な「島薗学」の中心線が見えてくる書でもある。

序章 日本仏教を捉え返す
第1章 出家と在家―近代的な仏教理解を超えて
第2章 仏教と国家―正法を具現する社会
第3章 正法と慈悲―仏教倫理の基礎概念
第4章 正法と末法―日本仏教の形成
第5章 正法復興運動の系譜―中世から近世へ
第6章 在家主義仏教と社会性の自覚―近代から現代へ
終章 東日本大震災と仏教の力
補章 近代日本仏教の社会倫理―伝統仏教教団を中心に

僕としては、歴史理解の問題として、日本仏教史に存在してきた「社会倫理」の次元に目を向かせ、見通しを与えてくれる書として受けとりたい。逆に、以下の点については留保をする。(1)仏教の本質に社会倫理思想が含まれているとして、それが「正法(サッダルマ)」という概念に集約されているものとして整理できるかどうか。(2)近代や現代における仏教的諸運動の評価や可能性について。これらを歴史上の仏教諸運動の連続線上に理解することができるかどうか。やはり、近代社会における宗教の位置づけを考えると、とりわけ社会倫理という主題について、前近代と近代のあいだには大きな断絶を認めざるをえないのではないか。

本書に言う「正法」の理念とは、「出家者集団が正しい「真理=法」を具現し、権威をもって存在することによって、国家社会において平和と反映が実現するものと信じられている」(61)という種類のもので、仏教の重要な構成要素を成してきたものとされる。著者による正法理念の説明、「①正しい法。法の混乱に対して、正しい方に従うことが希望となる。②正法の流布は国家社会を平安にする。③正法を打ち立て護ることは国王の責務である。④正法は真正なサンガ(僧伽・僧団)によってこそ効力を示す。⑤サンガは王に護られつつ、正法を広める。⑥真正なサンガが崩壊することと、統治が乱れることは不可分。⑦末法とは、真正なサンガが成り立たず、正法の流布が困難になった時代」(173)。

正法の理念が重要なことは日本でも同様であったが、正法復興をあきらめる浄土思想の末法概念や、法然以降の鎌倉仏教の宗派主義のなかでしだいに変容し、西洋近代的宗教観の影響下のもと、過小評価されるにいたっているのだという。逆に、鎌倉仏教優越史観は修正されるべきであり、また和辻哲郎や中村元にみられる「慈悲」を仏教思想の中心に置く見方も相対化されねばならないとする。

たしかにこのように指摘されてみると、古代・中世と、仏教が国家鎮護の役割を期待されていたことに、十分な説明がこれまでされてこなかったこと、実際には歴史上、そうした役割がきわめて大きかったことに気づかされる。本書の観点からしてポイントとなるのは、統一サンガの成立をさまたげる、宗派主義の展開である。

さて、以下は著者の思想をうかがうことができる箇所。
近代の展開について。「もともと王国に良き秩序を打ち立て、平穏な社会生活を行き渡らせることを展望していた正法理念であるが、近代国民国家の形成に伴い宗教性をはらんだナショナリズムが展開したとき、それに対してどのような位置取りができただろうか。日本の場合、正法理念を掲げながら、強く仏教教団の自律性を打ち出すような方向に進むことができなかったのは確かだ。概括的に言えば、諸宗派教団にそのような思想的準備はなかった。正法運動には組織的な基礎が脆弱だった上に、思想的な基礎もあったとはいっても、国家神道を掲げる国家に対する自律性を保持するだけの骨格をもつまでには育っていなかった」(255)。

創価学会と立正佼成会を比較しながら。「立正佼成会の場合は1960年代以降、法華=日蓮仏教の宗派主義を脱し通仏教的なものに引き寄せていく動きが目立つようになる。そうすることによって、日本仏教が古代以来受け継いできた「正法」の本流に近づいていったと見てよい。法華=日蓮系の宗派主義的な背景をもつ大衆運動に根ざしながらも、「正法」理念に基づき社会参加的、社会倫理的な要素をもつ仏道実践を目指すもので、日本仏教史において、行基、空海、栄西、明恵、叡尊、忍性、慈雲等の系譜を通して展開した正法仏教の様態だ」(280)。

仏教内の宗派主義の克服は、著者自身の目指すところでもありそうである。ただ、ここまで仏教の「可能性」を強調しているところをみると、著者の国家神道に対する批判にも仏教への傾倒が関わっているのかもと思う。また、統一サンガという理想の話になれば、創価学会の政治進出も話題に入ってくると思うが、そのあたりはどうか。

なお、本書における仏教の社会倫理に関する議論は、中村元『宗教の社会倫理』に啓発されたものだという。もっとも、著者によれば、中村元はしだいにこの主題から離れていったしまったという。正法理念に関しては、タイ研究者である石井米雄の『世界の宗教8』と『上座部仏教の政治社会学』がアイディアのもとになっているとのこと。

石井米雄『上座部仏教の政治社会学』(創文社、1975年)

[J0494/240802]

〈メモ〉さて、著者による正法理念の強調は、日本の歴史における仏教思想の社会的次元を考えなおす上で興味ぶかい。しかし一方で気になるのは、儒教的な徳治主義などとの関連である。つまり、正しい政治と正しい宗教が一致するという諸理念である。[240804]