Page 9 of 183

千葉聡『ダーウィンの呪い』

講談社現代新書、2023年。著者はバリバリの生物学者らしいが、専門の科学思想史研究者と見紛う内容。

前半は、キラ星のような才能あふれる科学者たちが切磋琢磨しながら進化学を押し進めていく様子が描かれる。後半では一転、そうした科学者たちが優生思想の推進者となった歴史が示されるという、衝撃的ともいえる筋書きの一冊。

第一章 進化と進歩
第二章 美しい推論と醜い
第三章 灰色人
第四章 強い者ではなく助け合う者
第五章 実験の進化学
第六章 われても末に
第七章 人類の輝かしい進歩
第八章 人間改良
第九章 やさしい科学
第十章 悪魔の目覚め
第十一章 自由と正義のパラドクス
第十二章 無限の姿

本書の登場人物のいくらか。

■ チャールズ・ダーウィン
■ ジャン=バティスト・ラマルク
■ ハーバート・スペンサー: 適者生存の語を最初に使ったのはスペンサーだが、スペンサーはダーウィンの進化論を理解していなかった上、彼の理論的基礎は神の摂理を想定した進化理神論で、適者生存を重視していたわけでもなかった。
■ アダム・スミス
■ アルフレッド・ラッセル・ウォレス: ダーウィンに自然選択を適者生存の語に替えることを提案して受け入れられる。これが後の問題の導火線となる。
■ ベンジャミン・キッド: ダーウィンを曲解した『社会進化論』(1894年)がベストセラーに。優生学に反対した少数派。
■ ハーバート・ジョージ・ウェルズ
■ ピョートル・クロポトキン
■ トマス・ヘンリー・ハクスリー
■ アウグスト・ヴァイスマン
■ ヘンリー・F・オズボーン: 古生物の発展・普及に大きな貢献。優生学を推進。
■ フランシス・ゴルトン: 多方面にわたる天才科学者、「生まれか育ちか」の語をつくる。「優生学」という用語を創る。
■ ウィリアム・ベイトソン: ピアソンらと論争。グレゴリーの父親。
■ カール・ピアソン: ゴルトンの弟子、統計学の巨人。フェミニストとしても当時著名。優生学を牽引。
■ フランツ・ボアズ: ゴルトンの紹介でピアソンを知る。優生学を批判。
■ ロナルド・フィッシャー: やはり統計学からアプローチ、現代遺伝学の金字塔『自然選択の遺伝的理論』(1930年)にて、自然選択とメンデル遺伝、突然変異の完全な理論的統合を成し遂げる。優生学に積極的に関与。
■ レナード・ダーウィン(ダーウィンJr.): 英国優生教育学会に尽力。
■ ジョン・メイナード・ケインズ: フィッシャーとともにケンブリッジ大学優生学会を立ち上げる。
■ ジョサイア・ウェッジウッド四世: ダーウィンの家系と深い繋がりがありながら、優生思想と戦った政治家。
■ ピエール・ド・クーベルタン: 優生学的な思想のもと、近代オリンピックを創始。

そのほか、メモ。

「多くの歴史家は、19世紀にはいわゆる「ダーウィン革命」に相当する出来事は起きていないと総括している」(75)。当時流布した「ダーウィニズム」とは、実際には、ダーウィン自身の思想というより、それ以前より存在する目的論的な進歩史観であった。

ダーウィンは、反スピリチュアリズムの立場に立っていたらしい。それに対してスピリチュアリズムに傾倒したのがウォレスであった。

「人間社会に生物進化の考えを適用したのが、英国、米国、そしてナチスへと至るゴルトン流の優生学の系譜であるとするなら、当初から人間の進化を念頭に置いていたダーウィンの自然選択説そのものが、この系譜の発端だったと言えるだろう。ところがダーウィンのオリジナルな進化論は、原理的に「人種」の存在も、その優劣も否定する。生物は常に変化し、分岐し、そして進歩を否定するからである。そもそもダーウィンは「種」を実在しない恣意的なカテゴリーだと考えていた。皮肉にも本来、人種差別を否定し、人々の優劣を否定する理論が、その逆の役目を果たしたわけである」(251)。

著者は、道徳的な判断の適否は科学的な事実の真偽とは別問題であり、「平等と反差別は、科学的事実とは無関係に重視すべきものである」(309)という。本書の終章では、現在や未来のトランスヒューマニズムや遺伝学の技術の利用とその危険性についてかなりの紙幅を割いて論じられているが、こちらも傾聴に値する。改めて、専門の生物学者がこのように主張してくれているのは心強い。社会的判断においても冷静、という印象。

こちらも備忘、フランシス・ゴルトンの論文「祈りの効果に関する統計学的探究」(1872年)がかなりおもしろそうだったので、リンクを貼っておく(リプリント版)。
https://academic.oup.com/ije/article/41/4/923/689380

[J0499/240817]

佐藤俊樹『社会学の新地平』

副題「ウェーバーからルーマンへ」、岩波新書、2023年。

序章 現代社会学の生成と展開
第1章 「資本主義の精神」再訪:始まりの物語から
第2章 社会の比較分析:因果の緯糸と経糸
第3章 組織と意味のシステム:二一世紀の社会科学へ
終章 百年の環

力強いしかたで、新しいウェーバー解釈を提示する一冊。ポイントは、次のような点。

「近代資本主義を成立させた具体的な原因として、ウェーバーは一つではなく、少なくとも二つ考えていた。一つはいうまでもなく①プロテスタンティズムの禁欲倫理であり、もう一つは②会社の名の下で共同責任制をとり、会社固有の財産をもつ法人会社の制度である。少なくともその両方がなかれば、西洋でも近代資本主義は成立しなかった」(161)

1889年『中世における商事会社の歴史について』にはじまる、ウェーバーにおける組織論の重要性を強調しているほか、数理や計量の面でも先駆であることを主張。

さて、「資本主義の精神」について。

「日本語圏の解説の多くは、「資本主義の精神」をなんとなくかなり昔の、近代初期のことだと考えてきた。少なくとも、私自身はそう思い込んでいたが、実際には論文が発表される50年前ぐらいの出来事を、ウェーバーは描いているのである」(58)

「プロテスタンティズムの世俗内禁欲は、「神」会社の「仮社員」として死ぬまで働くことに等しい。他に社員はおらず、実際には全てを自分一人で決めて実行しなければならないから、ただの「仮社員」ではなく、「最高経営責任者(CEO)」かつ「正社員候補生」だ」(108)。

「近代資本主義の決定的な特徴を「自由な労働の合理的組織」に見出すというとらえ方は、だから30年にわたる彼の研究生活全体の結論でもある。20代の商法の研究も、30代後半の病気から回復してきて、40代に入るときに着手したプロテスタンティズムの禁欲倫理の研究も、そして50代の半ば過ぎで亡くなる前の比較分析も、一つの線でつながる。ウェーバーの研究は全体としてつながっているのだ」(140)

「儒教と道教」第4章について、「だからあえてウェーバーの「結論」を求めるとすれば、ここが一番ふさわしいだろう。つまり、ある程度の規模の経済社会において近代資本主義の成立/不成立の直接の原因になるのは、合理的な行政や司法の有無であり、それを社会的に支える重要な条件として、それと同型のしくみをもつ宗教倫理などがある。ウェーバーはそう考えていた」(160) 

同時に、「儒教と道教」の読みにくさについても説明(171-173)。元々の論文「儒教」に16世紀以降のデータを加えて大きく書き換えたのが「儒教と道教」であると。「ところが、分量がほぼ2倍になるほどの大改訂だったにもかかわらず、元の「儒教」に書き加える形にしたため、「儒教と道教」はひどく読みにくいものになった。論理展開が一貫せず、データの精度も大幅に上下する。近世中国史の知識がないと、そもそも何を書いているのか、わからない部分も少なくない」(173)。

さて、組織論について。

「上意下達(トップダウン)は組織を一回改革するには向いているが、日常の業務のなかで外部の環境の変化を素早くとらえ、対応を変えていくのには向いていない。・・・・・・上意下達は実際には、素早い決定が苦手なのである」(215);「よく誤解されるが、だからといって水平的な協働がつねに良く、階統型の業務処理がつねに悪いわけではない」(221)。

ウェーバーの合理的組織論・官僚制論の限界に対し「このしくみを意思決定の連鎖として、新たにモデル化したのは〔H・A・〕サイモンである。それをさらにルーマンは、コミュニケーションのシステムとしてとらえ直した。特に、この連鎖での決定がつねに時間的なものであることに注目して、その意味を深く考察した。基本的にはそれがそのまま「組織の自己産出系」と呼ばれるものになる」(218)。

このように、ルーマン社会学の原型である「組織の自己産出(自己準拠)」を、合理的組織論の展開として捉える。他方。

「因果分析の方法論に関しては、むしろルーマンの方が混乱しており、それが彼のわかりにくさを創り出した面も否定できない。例えばルーマンは「因果から機能へ」の転換を主張したが、余計な文飾や哲学談義を取り払えば、その内実は「原因と結果はつねに一対一で対応するわけではない」である」(265)。

本書における著者の主張は一貫しており、首肯できる部分も少なくない。一方で、ウェーバーの議論を大幅に組織論の方に寄せた著者の解釈のもとでは、なぜウェーバーが、古代ユダヤ教にはじまり、『宗教社会学論集』に収められることになった宗教史的研究にあれほどの力を注いだのかがよく分からなくなっている。

[J0498/240815]

【メモ】
1889年『中世における商事会社の歴史について』について、丸山尚士氏による翻訳。

島薗進『戦後日本の国家神道』

副題「天皇崇敬をめぐる宗教と政治」、岩波書店、2021年。

第Ⅰ部 国家神道をめぐる概念枠組み
第一章 近代日本の宗教構造と国家神道
 1 「神道指令」 と国家神道概念
 2 狭義と広義
 3 「宗教」、 治教、 祭祀
 4 国家神道とは何か
 5 宗教構造の変容
第二章 国体論神聖天皇崇敬と神道
 1 国体論神聖天皇崇敬と神道の関係
 2 今泉定助が捉える神道と国体論
 3 国体興隆と神道の復興としての明治維新
 4 近代神道史と国体論天皇崇敬
第三章 「宗教」 の上位にある精神秩序としての神道
 1 「宗教」 という訳語
 2 近世における 「道」 「教」 「宗門」
 3 「宗教」 の上位の 「治教」(「皇道」)
 4 文明の基盤としての 「宗教」 と 「信教の自由」
 5 「神道」 「皇道」 が 「宗教」 ではない理由
 6 「祭祀」 「治教」 が 「神道」 とみなされるまで
第四章 神社神職中心の神道観は妥当か
 はじめに
 1 神社を「民族宗教」とみなす
 2 神祇信仰から神道への展開を問う
 3 神社こそ神道の基体とみなす
 4 国家神道を宗教集団とみなす
 5 共有された考え方や行動様式から宗教を捉える
第五章 明治維新は世俗的変革か――安丸良夫の国家神道論をめぐって
 はじめに
 1 戦前の日本は世俗国家か
 2 神話に基づく天皇崇敬と国体論は宗教的ではないか
 3 まがりなりにも 「信教の自由」 は成り立っていたか
 4 国民国家とナショナリズムは世俗的か
第六章 国家神道神聖天皇崇敬の 「見えない化」――葦津珍彦の言説戦略とその系譜
 1 葦津珍彦と 「天皇の神聖」
 2 狭義の 「国家神道」 の言説戦略
 3 「国家神道」 と神聖天皇崇敬の 「見えない化」
付論1 神道国家神道の戦前戦後――『戦後史のなかの 「国家神道」』 をめぐって
 はじめに
 1 「広義の国家神道」 概念は戦前に系譜をたどれるか
 2 戦後の広義 「国家神道」 と戦前の 「神道」 の連続性
 3 戦後憲法学の 「国家神道」 とその系譜おわりに
第Ⅱ部 「国家神道の解体」 と天皇の神聖性
第一章 国家神道の戦後――皇室祭祀神社本庁
 1 「国家神道の解体」 の実態
 2 戦後の皇室祭祀
 3 宗教教団としての神社本庁
第二章 敗戦と天皇の神聖性をめぐる政治
 1 「天皇の人間宣言」 は誰の意思によるものか?
 2 「国体のカルト」 をどう制御するのか
 3 神道と天皇崇敬という複合問題
 4 「天皇の人間宣言」 が先送りしたもの
第三章 国家神道の存続と教育勅語の廃止問題
 1 国家神道の解体と教育勅語
 2 教育勅語の存続
 3 占領初期の日本の知的指導者らの教育勅語観
 4 南原繁の教育勅語尊重と天皇崇敬
 5 「国体護持」 と 「民族共同体」
付論2 戦後の靖国神社をめぐって
 はじめに
 1 靖国神社はなぜ生き延びることができたのか
 2 戦後靖国政治史をどう捉えるか?
第Ⅲ部 天皇の神聖性をめぐる政治の展開
第一章 戦後の国家神道復興運動――日本会議神道政治連盟神社本庁
 はじめに
 1 日本会議の運動
 2 神道政治連盟と皇室の尊厳護持運動
 3 神社本庁の発足と設立の意図
 4 神道政治連盟の結成とその後の運動
 5 安倍元首相と国家神道伊勢神宮
 おわりに
第二章 日本人論と国家神道の関わり
 はじめに
 1 中空構造無構造固有信仰
 2 日本人論と国民道徳論
 3 教育勅語国体論から日本人論へ
 4 新たな 「神聖天皇」 言説
 5 昭和前期戦中期の言説への回帰
 おわりに
第三章 皇室典範と「万世一系」
 はじめに
 1 皇位継承問題と立憲主義
 2 生前退位問題と立憲主義
 3 生前退位否定の根拠と 「万世一系」
 4 『皇室典範義解』 の終身在位論
第四章 生前退位と 「神聖な天皇」
 1 天皇崇敬を重視する論者の反対論
 2 天皇の人間性
 3 天皇の神聖化の動き
 4 「新日本建設に関する詔書」 との照応関係
 5 象徴天皇制と信教の自由思想信条の自由

I-1、「ここで概念化を試みた広い意味での「国家神道」は、神聖天皇崇敬と結びつき、学校、軍隊、国民行事、メディア、神社などを通して、さまざまな機会にさまざまなエージェントを通して鼓吹されたものである。・・・・・・教育勅語や御真影をめぐる儀礼的実践、軍人勅諭の奉読等は神道的な要素を色濃く含むとはいえ、「神聖天皇崇敬」が基調である。それらのすべてを「国家神道」に含める必要はないが、それらが国家神道と密接に結びついて、その境目を区切ることが困難であることについては異論が少ないであろう」(29)。

なお、著者が『国家神道と日本人』(2010年)で論じてきた「国家神道」に「神聖天皇崇敬」を合わせて用いる方針は、『神聖天皇のゆくえ』(2019年)や『明治大帝の誕生』(2019年)を著す中で固まってきたものだという(「あとがき」418)。

近代の国家神道・神聖天皇崇敬と諸宗教・諸宗派の「分業を内包した二重構造」(32)。そしてまた、「「宗教(狭義)」と「治教」や「祭祀」という二重構造は実は、近代以前から存在していたものだった」(33)。「個々人の救いと死生の超越を志向する仏教や神仏習合の諸宗教・諸宗派の上位に、政治権力と国家を聖化し、秩序原理を提示する「治教」と「祭祀」のシステムが重なる二重構造」とは、「近世東アジア的な宗教構造の日本的形態と言える」ものだったという(33)。ただし、「日本の近代の宗教構造は神聖天皇崇敬と結びついた国家神道を生成させることにより、世俗秩序の宗教的聖化のシステムを著しく肥大化させることになった」(33-34)のであり、「国民としての規律づけが、儒教や神道の伝統を引き継ぐ、世俗秩序の聖化のシステムと不可分なものとして展開したわけである」(34)。さらには、「〔神道指令によるところの〕「国家神道の解体」の後にも、日本の宗教の二重構造が完全に「解体」してしまったわけではなく、異なる形で存続していると見る見方も十分に成り立つはずである」(34)。

I-6、国家神道・神聖天皇崇敬の「見えない化」。実証史学の観点から広義の「国家神道」にあたる用語の実例があまり見あたらないことから、「国家神道」という概念を使えないとする山口輝臣の主張も、葦津珍彦や阪本是丸のように、一時期国家に属した神社神道にかぎって「国家神道」を狭く定義しようとするやり方も、いずれも「神聖天皇崇敬がもった強力な歴史的働きを「見えない化」することにつながっている」(149)と、著者は批判する。「神社神道、皇室神道、神権的国体論は密接に関わって近代日本の精神文化を、また人々の行動様式や形づくってきた。そのことを「見えない」ままにしておく用語法は歴史学的にも適切と言えないだろう」(149-150)。

II-1、「神道指令が「神道のイデオロギー的歪曲」と捉えたものは、皇室祭祀をその中核に含み込んだ「祭政教一致」の規範体系として一体性をもっていた。神道の歴史を理解する上でも、他の社会との比較を行う上でも、そして、近代日本国家を支えた規範=表象体系の全体像を捉える上でも、このシステムを名指すことは避けがたいことである。その用語としては国家神道が適切だ。これが筆者の立場である」(181)。

近代日本において神社神道、皇室神道、神権的国体論、あるいは神聖天皇崇敬が結びついてひとつの国家的システムを形づくってきたこと、それは国家制度であるのみならず、民衆にも深く食い込んだものであること、そしてこれが筆者の着眼の重要な点であるが、それが現在にいたるまで一定のかたちで存続をしていること、これらの主張には首肯である。ただし、それを名指すのに「国家神道」以外の用語はありえないものか、とも直感的には思う。

「「宗教集団としての神社本庁」は研究史上の盲点になってきたと言える」。「神社本庁は民間の神社信仰をすくいあげてまとめるというよりは、国家と天皇を主要な主題とする政治的宗教団体として発展していく。神社本庁は広い意味での国家神道的な信念を宗教的な柱とし、神道的な意義をもあった天皇崇敬や天皇と神社の連携強化を目指すようになる。民間の神社神道の充実というよりは、主に国民生活のなかでの国家神道の地位を高めることに多大な力を注ぐ宗教教団として活動を進めていくことになる」(193)。まさに盲点、言われてみればそのとおり。本書III-1でも取り上げられているが、「日本会議」への注目でその領域もある程度認知されるようにはなったが。

「第二次世界大戦後の国家神道はたとえ「解体」されたとしてもけして消滅したわけではなかった。戦後の国家神道はいくつかの大きな座をもっていた。一つは皇室祭祀であり、もう一つは神社本庁を重要な担い手とする神聖天皇崇敬運動である。前者は見えにくい形に隠れているが、現存の法制度のなかでの国家神道の核であり、後者はその核を見据えつつ、国家神道的な制度を拡充していこうとする団体や運動体である。伊勢神宮と靖国神社はこの両者を媒介する位置にある。20世紀後半の日本の国家神道は、「隠れた皇室祭祀と運動体のなかの国家神道」の連合体として位置づけることができるだろう」(200)。あと、ここに付け加えるとすれば、遺族会の存在か。著者が遺族会に言及していないのは、それがだんだんと力を失ってきていることと、あと穿った見方をすれば、国家神道における「救い」の問題をペンディングしておきたいという意識もあるだろうか。

II-2、これは僕が勉強したことないからメモをしていおくものだが、天皇の人間宣言は、「天皇は神の裔ではない」とあったCIEの原文を、侍従次長の木下道雄と天皇自身が修正して、「天皇は現人神ではない」としたものだという。その意図するところは、天皇自身は神ではなくても、神の子孫ではあるという主張を維持したということだと。その経緯は、幣原平和財団編『幣原喜重郎』や木下道夫『側近日誌』にあるとのこと。

[J0497/240810]