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江森百花・川崎莉音『なぜ地方女子は東大を目指さないのか』

光文社新書、2024年。難関大学に挑戦しにくい環境に置かれている地方女子。彼女たちを「呪縛」から解放しようと、その環境に関する調査研究を実施。そのこころざしはすばらしいが、内容には大いに不満だ。ここに書かれているのは、どこまでも地方大都市圏の子の話。より厳しい環境にあるはずの、小都市や中山間地に生まれた本当の地方女子は、ここでも、またしても、置いていかれる。

第1章 課題の背景
第2章 なぜ地方女子は難関大学を志望しないのか
第3章 原因の探究(1)資格重視傾向
第4章 原因の探究(2)低い自己評価
第5章 原因の探究(3)安全志向
第6章 保護者からの期待のジェンダーギャップ
第7章 「女子は地元」に縛られて
第8章 解決への道のり

資格志向の話や、医学部志向の話、ロールモデルの話など、本書にはたしかに重要な指摘も含まれている(ところでここで扱っているデータは、医学部看護学科も入っているのだろうか。気にはなる)。しかしだ。

「地方」といいつつ、本書では地方大都市と地方小都市や中山間地のちがいがまったく意識されておらず、地方大都市が前提となっていて、地方小都市や中山間地の状況がまったく理解されていない。札幌と帯広と遠軽を一緒にして「地方」と括ってしまっていいのだろうか。神戸と鳥取とでも、どれだけ別世界であることか。

もうすこし具体的に。本書のメインとなっている調査の対象は偏差値67以上の高校らしいが、本当の地方では、自宅から通える範囲にそういう高校すら存在しない。

浪人回避の原因をおもに本人や保護者の意識の問題として語っているが、本当の地方には予備校はなく、あったとしても難関校に特化した予備校なんてどこにもないのだ。県外の地方大都市に出て、一人暮らしや寮住まいをしないと、まともな受験対策が受けられない。だから、「浪人のコストを気にする傾向」なるものは(第一義には)心理的・社会関係的なものではない。地方女子(および地方男子)にとって、お金の問題をはじめ、浪人のコストは「実際に」何倍も大きいのだ。そんな本当の地方では当たり前の事情さえも配慮せずに、社会心理の問題として挑戦を煽ってはまずいでしょう。

著者たちは静岡と兵庫のご出身とのことで、東大に進学してみて首都圏出身の学生とのあいだに大きな意識のギャップを感じたそうである。北海道や東北、山陰や四国といった地域の小都市や中山間地の若者は、同じくらいのギャップ、もしかしたらもっと大きなギャップと疎外感を、地方都市出身の学生とのあいだに感じていることはまちがいない。大きな本屋もなければ予備校もない、そもそも近隣に大学もない、そんな場所はいくらでもある。「地方女子」という看板をかかげてそのエンパワーメントをめざすなら、ぜひ著者たちには、地方大都市圏と小都市・町村部の現実のちがいも視野に入れた調査研究を進めてもらいたい。

[J0580/250422]

栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』

作品社、2019年。うーん、Not For Meではあったかな。ほんとうに「ぼそぼそ声」だけの人ではなくて、運動にもかかわっている人のようだが、その運動の内容はちょっと本書ではよく見えなかった。典型的なフェミニズムからはこぼれ落ちてしまうもの、という部分は分かるのだが。一番印象に残ったのは、「単純労働でどうして食べていけないのかが私にとっては一大テーマだ」(109)というところ。

はじめに ぼそぼそ声のフェミニズム
第1部 〈私〉から出発し、女性の貧困を見据えること
1 ないものとされてきた女性たち
2 教える/教わる「女性の問題」
3 シューカツを巡る〈大人〉の欲望のまなざし
4 取り散らかった「私の部屋」から出発する
第2部 女性を分かつもの
5 労働の「他女」/アカデミックなフェミニズムの「他女」として叫ぶこと
6 “偽装”婚活迷走レポート
7 「愚かさ」「弱さ」の尊重
第3部 新しい「運動」へ
8 「自立」に風穴を開けるために
9 「気持ち悪い」男・「気持ち悪い」出来事
10 真空地帯としての社会運動
11 「私も」(MeToo)を支えるもの

[J0579/250422]

志賀信夫『貧困とは何か』

副題「「健康で文化的な最低限の生活」という難問」、ちくま新書、2025年。直球勝負で貧困を問題にする姿勢もすばらしいし、チャールズ・ブースやシーボーム・ラウントリーに遡って貧困研究の系譜を検証している点も好感。貧困問題へのラディカルかつ現実的な取り組みを、あるいは「ラディカルだからこそ現実的である」取り組みを、提唱している。

はじめに ―― 「健康で文化的な最低限度の生活」から考え始める
序章 貧困とは何か?
第1章 生きていければ「貧困」じゃない? ―― 絶対的貧困理論
第2章 家族主義を乗り越えるために ―― 相対的貧困理論
第3章 ベーシック・サービス、コモン、社会的共通資本 ―― 社会的排除理論
第4章 「子どもの貧困」に潜む罠 ―― 「投資」と「選別」を批判する
第5章 「貧困」は自分のせいなのか? ―― 「階級」から問い直す
終章 貧困のない社会はあり得るか?

著者による、貧困理論の歴史的展開の整理。
①19世紀末から20世紀初頭:絶対的貧困理論/肉体的能率が維持できない所得
②20世紀半ば:相対的貧困理論/普通の生活を維持できない所得
③20世紀後半以降:社会的排除理論/幸福追求を阻害する自由・権利の不全

「ブースの貧困調査によって、貧困状態にある人びとの全人口に占める割合が彼自身の当初の予想に反して非常に高いものであることが明らかにされた。そして「真の労働者」を選別的にまなざすことによって、彼らを救済の対象とし、そうでない者を排除した。したがって、ブースの貧困理論は、優生思想に基づく、「選別と排除」を旨とするものであったともいえる。ただし、ブースの貧困理論は、優生思想に基礎づけられていたというよりも、資本の論理が先行していたということには注意を払っておくべきである。つまり、資本による「役に立たない」あるいは「救済に値しない」人びとに対する判断を科学的合理性のあるものとして仕立てあげるために、優生思想が利用されたのである」(49)。

食事・住居・衣服の機能の整理については、著者の『貧困理論入門』。

「差別の実践には、「異化」と「同化」の二つがある」(112)。「「異化」と「同化」は交互に実践されることが多い。「異化」によって序列化を決定的なものとし、「同化」によってその序列を盤石なものとし、非抑圧者に対する支配・統治を維持するのである」(113)。

社会的排除に対する対策としてのベーシック・サービスに関する議論。志賀さんはまず、ベーシック・インカムはそれだけでは有効な対策にならないとみる。ベーシックサービス案は、行きすぎた資本主義としての新自由主義批判にとどまってはならず、資本主義それ自体への批判と進まなければならない。ベーシック・インカム案のように、富の再分配の是正ではなく、貧困を生み出す根本原因である、資本主義の生産関係の見直しに乗り出さねばならない。

貧困がうみだされる根本原因は、資本主義の生産関係の前提となっている本源的無所有にある。「「本源的無所有」とは、人びとが生産手段に自律的な関わりができず、本源的な生存条件から引きはがされている状況のことである」(162)。ただし、共産主義や社会主義によるその克服を考えているわけではない。ここでは斎藤幸平氏の議論が引かれて、「斎藤によれば、例えばソ連では多くの国営企業が存在していたものの、各々の企業の目的は剰余価値を最大化することであり、資本の自己増殖であった。・・・・・・その一方で、労働者たちは自分たちで生産手段を管理すること(自律的な関わり)は許されていなかった」と説明されている(173)。志賀さんが主張しているのは、マルクス主義的貧困理論ではなく、「生産関係論的貧困理論」と称されるものである。

「貧困間の貧困」。「日本人の貧困観は、イギリスやフランスの人びとと比較して貧相である」(136)。「貧困者バッシングや生活保護バッシングは、「働かざる者、食うべからず」という倫理・道徳や、「食べることができているからよいではないか」というような「貧困=絶対的貧困」という限定的な理解から生まれる。これは、イギリスやフランスと比較しても、日本の人びとの連帯が相対的に脆弱であるという問題と関係しているとみられる」(136)。

「子どもの貧困」論の陥穽。「そもそも、「子どもの貧困」という問題設定によって貧困と自己責任論を切り離したところで、「大人の貧困」の自己責任論とはまったく対峙していない。それどころか、子どもの「非・自己責任」性が強調されることで、ネガティブな影響が生じてくる可能性すらある。ここでいう、子どもの「非・自己責任」の本質とは、子どもの貧困は子どもに原因があるわけではなく、その環境に問題があるというものである。そして、この「環境」のなかに親をはじめとした大人がいる。ここで問題なのは、第一に、大人の生活における自己責任が間接的に強調されていること、そして第二に、子どもの生活環境は親がすべて用意するべきものであるという価値規範を内在する「家族主義」から出発しているということである」(139)。→ 「投資アプローチ」ではなく、「権利アプローチ」を、と言われる。

「1980年代以降、「貧困」という概念の拡大の背景には、労働運動だけでなく、女性たちによる社会運動、そしてさらに障害者、黒人など、それまで劣後されてきた人びとの社会運動が多様に展開し、資本主義的生産様式のもので編成された権力関係に異議申し立てを実践している状況がある。もちろん、直接的には、女性は男性への従属に対して、障害者は健常者への従属に対して、黒人は白人への従属に対して異議申し立てをしている。支配してきた集団は、その意義申し立てに対応する責任を負っていることは間違いない。ただし、様々な社会運動はそこだけに終始していない場合も少なくないことにも注目すべきである。それらは差別を徹底的に利用してきた資本に対する批判も展開するようになってきている。・・・・・・このような意味で、現代の新しい貧困問題から出発する貧困理論は、「生産関係論的貧困理論」のなかに位置づけられる可能性をもっている」(189-190)

[J0578/250420]