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竹沢尚一郎『ホモ・サピエンスの宗教史』

アフリカ史や宗教人類学に通じた著者の知見が生かされた、人類の宗教史。中公選書、2023年。

序章 宗教は謎だらけだ
第1章 宗教の起源:宗教はいつはじまったか
第2章 アニミズムの世界:狩猟採集民の宗教
第3章 儀礼の体系の成立:農耕民と牧畜民の宗教
第4章 多神教の確立:国家と古代文明の宗教
第5章 世界宗教の誕生:「枢軸の時代」
第6章 宗教改革の光と影:宗教は現代世界の成立にどう関係したか
結論

先行研究の整理も含めて、やはりもっとも充実しているのは、著者の専門領域に近い、狩猟採集民の宗教のところ。このほか、イスラームの位置づけについても面白い。

狩猟採集民の宗教は、次のように定義されている。「宗教、とくに儀礼とは、それぞれの社会において人間が自分自身に対して働きかけ、その知的能力と身体-生理的能力を開発しつつ、共同性の経験を生み出すためにつくり出した技法の総体である」(107)。ひとつ大きなポイントは、「狩猟採集民も神々(カミ)や精霊などの宗教的観念を有しているが、彼らの宗教の中心にあるのはあくまで儀礼であって宗教的観念ではない」という点である(106)。

一方、狩猟採集民には祖先祭祀は存在しないとされる。「「死んだ人間のことはさっさと忘れてしまうほうがよいのだ」といっていた狩猟採集民が、〔イェリコ遺跡にみられるように〕自家の床に先祖の頭蓋骨を埋め、それを定期的に掘り起こして祭祀をおこなう祖先祭祀にはげむようになるには、農耕を開始して、土地への執着が強まると同時に、人びとの現在の生活の基盤を築いた先祖への負債の感情が生じることが不可欠であった。祖先祭祀とは、農耕と定住をはじめた人びとがつくり出した宗教の一要素であったのだ」(122)。

生業との関連で考察された呪術論も面白く、納得できる。著者は、これまで呪術とよばれてきたものは儀礼の一部であって、しばしば誤って解釈されてきたという(135 ff.)。そしてまた、呪術的なものを含む儀礼主義は狩猟採集民には希薄であって、それは農耕や牧畜の開始によって生まれたものだとしている。

その後、多神教の発生から、世界宗教の登場のようすをたどったのち、そこに現れて近代世界の誕生につながった「宗教改革」を論じているが、そこで著者が挙げているのは、イスラーム、プロテスタンティズムと、社会的には頓挫した改革であるという日本の鎌倉新仏教である。著者いわく、「宗教史の観点からいえば、イスラームの勃興によって主要な世界宗教の誕生は完了し、それ以降おこなわれたことは、キリスト教と仏教を加えた三つの世界宗教の拡張と修正であって、決定的な変革ではなかった。その意味で、イスラームとともに宗教の現代的状況がはじまったのだ」(299)。

諸種の宗教改革を経たあとの世界について。「西欧における宗教改革が主権国家と資本主義の成立、そして近代科学の誕生に寄与したことを最後に見たが、それらはいずれも宗教の外部で生じた事態である。宗教固有の次元にかぎっていえば、宗教改革は身体性や地域性にむすびついた儀礼の力を縮減したし、現世を超えた救済のために地上での享受を断念させようとした。それは教義の理解を優先させることで、宗教が本来もっていた力、人間を深いところから動かすと同時に宇宙全体のリズムへと開かせる力を、貧弱化させてしまったのだ」(370)。

プロテスタント宗教改革が、宗教の儀礼的・身体的側面や共同的側面を奪ってしまったという筋の議論なら数多くある。本書は、その議論の範囲を時間的・空間的に拡張し、人類における宗教の発祥を儀礼や共同性に求めた上で、「世界宗教」の成立によってそれが変容して、現在では宗教の可能性が切り崩されていると論じたものと捉えることができそうである。

「序章」と「あとがき」で、本書の仮想敵のひとつとして挙げられているのは、ユヴァル・ハラリの『サピエンス全史』である。著者は、突然変異による認知革命ですべてを説明するハラリの議論は飛躍に満ちているのだと、また、「ハラリは宗教の進化をアニミズム→多神教→一神教というかたちで説明しているが、これは宗教を観念や信念の観点から理解しようとする見方であり、これはプロテスタンティズムとともに近代になって登場したものでしかない」(14)のだとして、これを批判している。

もし著者の議論とハラリの議論をどちらを持つかと言われれば、もちろん前者を持ちたいが、しかし、こうしたハラリの議論の欠点を本書がしっかり上書きできているかと言われると、即答しがたい。本書著者とハラリの最大のちがいとは、歴史理解や論証のしかたである以上に、「宗教とはなにか」という理解にほかならないのではないか。本書著者が、宗教の本質的役割を儀礼や身体性、共同性に求め、その必要性は潜在的には失われていないとみるのに対し、ハラリは認知的側面にその本質的役割があるとして、現在ではその役割をすでに終えているとみている。両者の歴史記述のちがいは、こうした着眼点のちがいと見ることもできる。

本書の所論に対して浮かんだ疑問のひとつに、「現在において本当に、どこまで、宗教は儀礼や共同性を見失っているのか」という問いがある。むしろ、この点を深めることでこそ、ハラリに対する正当な批判ができるのではないか。

[J0446/240103]

大西暢夫『ホハレ峠』

副題「ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡」。ダムに沈んだ山間の寒村に通いつめた著者が、そこに住んだ老夫婦の人生を辿る。彩流社、2020年。

第1部 日本一のダムができるまで
廣瀬ゆきえさんとの出会い/徳山村、最後の住人の最後の日/徳山ダム試験湛水/静かな移転地


第2部 徳山村、百年の軌跡
廣瀬ゆきえ幼年期/はじめての滋賀県。海を見た/はじめての巨大紡績工場へ/結婚―開拓の地、北海道真狩村へ/今井磯雄・敏子夫婦との出会い/長男・陸男/開拓団長・今井茂八に札幌で会えた/国営のミハラ農場へ/橋本から廣瀬へ/徳山村にダムがやってくる/徳山村は命の大地/ゆきえばばが、死んだ

徳山村は、福井県や滋賀県寄りの岐阜県山中にあって、いまグーグルマップをみても、門入集落が沈んだ徳山ダム周辺に人の生活の様子はうかがえない。

第1部では、門入集落に最後まで残った廣瀬司さん、ゆきえさんご夫婦の当地での生活と、立ち退きまでが描かれる。ここで、「最後まで、昔ながらの生活をして村に留まった老夫婦」というストーリーでいったんは話が終わるが、第2部では、このご夫婦の人生やこの集落の背後にある詳細な歴史が明かされて、この方々にとって門入を捨てさせられるということがどんなに重い意味をもっていたかということが分かるという、劇的な構成になっている。

「村人」の一般的イメージとは裏腹に、廣瀬ゆきえさんは、ずっと門入に留まって暮らしていたどころか、少女時代から岐阜や名古屋に働きに出た後、門入の開拓団が入っていた北海道真狩村に嫁入りしたのち、家を継ぐために夫婦でまた門入に戻るという人生を送ってきたのであった。そのホハレ峠がタイトルになっているように、14歳のとき、蚕の繭を売りに、県境の峠を越えたら琵琶湖が見えたというくだりは印象的だ。

「昔の人は今の人より野心に富んだ人生に見えた。先が見えなくても知らない世界に踏み込んで行く。保証も保険も担保もない。明日を迎えるために今日をどう生きて行こうかというように。」(132)

著者の大西さんは、たんにゆきえさんの足跡を知るというだけでなく、「ゆきえさんがかつて眺めて風景」を尋ねて、真狩にまでも何度も足を運んでいる。真狩を去って札幌で暮らしている親戚の方が、徳山村のニシンの飯寿司をいまも伝えていたという話からも、著者が受けた感動が伝わってくる。昭和30年に廣瀬夫妻が徳山に戻ったとき、真狩にも当たり前に通っていた電気が、徳山には通っていなかったという。

こうした人生のストーリー、集落のストーリーを再体験したあとに、最初は知らずに読んでいた、ゆきえさんの言葉が重く響いてくる。

「ここに家を建てて、やがて20年になる。正直に言うと、もう金がないんじゃ。ダムができた頃は、一時、補償金という大金が入ってきて喜んだこともあった。でも今はそうじゃない。気づいたころには、先祖の積み上げたものをすっかりごとわしらは、一代で食いつぶしてまったという気持ちになってな。徳山村の価値は現金化され、後世に残せんようになったんや。20年経って、実感を持つようになったんじゃ。金を使えば使うほど、村を切り売りしていくような痛い気持ちや。補償金で暮らしが豊かになり、いい車にも乗れて、大きな家を建てて、いいことばかりを、ダムの偉い人らに何年もかけて教えられてきたんじゃ。『おばあちゃん、ここに一つハンコをついてくれたらいいで』。村中がそんな雰囲気に押しつぶされていったんじゃ。体験した者じゃないとわからんが、耐えられんぞ。結局、税金などを長い時間を払っていたら、補償金は国に返したようなもんや。気づけば、わしらの先祖の財産は手元にすっかりことなくなっとるんやからな。そして村までなくなり、バラバラになってまった。みんな一時の喜びはあっても、長い目でみたらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」(70-71)

それにしても著者の大西さんの情熱は驚くべきもので、本書の出版までゆきえさん逝去後、7年もかかっているところにもその誠実さを感じる。なお、この徳山村の在りし日の様子については、ここを故郷に生まれ暮らした増山たづ子さんという方が膨大な写真を残しており、写真集も出版されている。

[J0445/240101]

ルース・ベネディクト『レイシズム』

1934年に『文化のパターン』を発表していたベネディクトが、『菊と刀』に結実する日本文化論に取り組む前の著作で、レイシズムという言葉が一般化するきっかけとなったものらしい。阿部大樹訳、講談社学術文庫、2020年。初出は 1940年だそう。

第一部 人種とは何か
 第一章 現代社会におけるレイシズム
 第二章 人種とは何ではないか
 第三章 人類は自らを分類する
 第四章 移民および混交について
 第五章 遺伝とは何か
 第六章 どの人種が最も優れているのだろうか
第二部 レイシズムとは何か
 第七章 レイシズムの自然史
 第八章 どうしたら人種差別はなくなるだろうか?
訳者あとがき
レイシズムを乗り越えるための読書案内

第一部では、いかに人種という概念が科学的根拠のないものかを示し、第二部では、レイシズムの歴史を概観する。

「人間の身体的特徴を戦争や大規模な迫害の根拠として挙げ、さらにそれを実行に移すまでになったのは、私たちのヨーロッパ文明が初めてである。レイシズムは西洋人がこのように産み落としたものである、と言い換えてもいい」(14)

「新約聖書は人間を二つに分けた。善をなしたものと、悪をなしたものとに。・・・・・・レイシズムはカルヴィニズムの再来である」(14-15)

「人種というものは確かに存在する。しかしレイシズムは迷信といっていい。レイシズムとは、エスニック・グループに劣っているものと優れているものがあるというドグマである」(118)

「何世紀にもわたって、主戦場は宗教であった。カトリック教会の異端尋問はただ異端派を次から次へと火炙りにしていただけでなく、同時に、多数派に特別な価値と正当性があることを確認する行為でもあった。このことを無視して人種問題を取り扱うことはできないだろう。現在争われているのが宗教ではなく人種であることには、そういう時代だからという以上の理由はない。異民族の迫害と異端者の迫害は瓜二つである」(170)

この時代にここまで言うのは凄い。「訳者あとがき」で阿部さんは彼女のセクシュアリティの問題に触れているが、性的なものかどうかは別にして、彼女の立ち位置にはいつも社会的マイノリティに対する共感があることを感じる。『菊と刀』の原型となった調査研究についても、戦争時の戦略のひとつであることを考えれば「幸運」という表現はそぐわないかもしれないが、このようにたぐいまれな人種主義批判者であるベネディクトが日本文化研究を担ったことや、そういう人物に敵国文化研究を委ねた当時のアメリカという国の見識には、ある種の感慨の念が湧いてくる。

[J0444/231231]