副題「弔いはなぜ仏教になったか」、筑摩選書、2023年。
文体やロジックが、まったく奇をてらってはいないのだけど、カクカクした感じで特徴的。仏典に親しんでいると、こういう感じになるのかな?
布施、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔からなる、いわゆる葬式仏教の歴史的成立を、インドや中国の仏教と比較しながら描きだす。
序章 それぞれの仏教
第1章 布施の始まり
第2章 葬式の始まり
第3章 戒名の始まり
第4章 慰霊の始まり
第5章 追善の始まり
第6章 起塔の始まり
終章 葬式仏教の将来
付録 『浄飯王般涅槃経』の真偽をめぐって
葬式の背景(84)、
出家者が出家者の葬式を行う:インドの土着習俗。
在家者が出家者(もとは阿羅漢のみ)の葬式を行う:インドの聖者崇拝。
出家者が在家者(もとは阿羅漢のみ)の葬式を行う:インドの聖者崇拝。
在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う:中国の聖者崇拝。
評者注記。本書では聖者ということばがキーワードになっているが、どうもその意味が曖昧にみえる。多くの場所で、たんなる出家者や僧侶が聖者ではないとされているのはわかるのだけども。悟りを開いた出家者はみな聖者とみてよい?どうもよくわからない。
チベットでは中有を認める。「したがって、チベットにおいては、そのあいだに出家者が亡者に灌頂を授けたり、あるいは戒を授けたりすることがあるのである。タイとチベットにおいては、出家者は亡者に戒を授けることはあるが、出家者が亡者に戒を授けるときに名を与えることはない」(101)。「じつは、出家者が亡者に戒を授ける時に名を与えることは日本において考え出されたのである」(101)。それは、平安時代に考え出された「臨終出家」の応用として、「死後出家」が出現したことによる。加えて、「日本においては、もともと、中国においてと同様、出家者が与えられる出家者名も、在家者が与えられる菩薩名も、法諱/法名/法号と呼ばれていた。戒名ということば用いられるようになったのは江戸時代においてである」(107)。
日本紀・続日本紀の頃、「ここまで、日本においては、盂蘭盆会において、在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣に転生させることが考えられていたのである。ただし、のちには、日本においても、北宋からの影響によって、盂蘭盆会において、在家者が亡者に布施を供えることが考えられるようになった。いわゆる「お盆」の行事の始まりである」(137)。
「インドにおいては、在家者は慰霊を行っていたが、追善を行っていなかったのである。そもそも、インドにおいては、いまだどこへも転生していない亡者を儀式によって善趣へ転生させることはブッダですらできないと考えられていた」(154-155)。
「在家者が在家者の塔を起てることが考えられるようになったのは鎌倉時代においてである。平安時代末期においては、石塔として五輪塔や宝篋印塔が起てられていたが、鎌倉時代においては、そのような塔のうちに在家者の遺骨を収めることが始まった。ちなみに、五輪塔や宝篋印塔を石で造ることは、従来、日本において始まったと考えられていたが、近年、北宋の時代の中国において始まって、日本へ伝わったと考えられるようになっている。ただし、そのような塔のうちに在家者の遺骨を収めることは日本において始まったのである」(221)。「五輪塔や宝篋印塔に代わって、在家者が四角い墓石を起てるようになったのは室町時代からである」(222)。「在家者が四角い墓石に亡者の戒名/法名を記すようになったのは江戸時代からである」(222)。
「布施、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔によって特徴づけられる、在家者の葬式のための宗教――いわゆる葬式仏教は在家者の聖者崇拝に起源を有している。その点において、筆者は、いわば、葬式仏教在家起源説を提唱するのである」(226)。
「仏教は、もともと、出家者の悟りのための宗教として機能していたが、聖者崇拝と土着習俗とを背景として、しだいに、在家者の葬式のための宗教としても機能するようになった。出家者の悟りのための宗教と、在家者の葬式のための宗教とはまったく矛盾しない。在家者は在家者の葬式において、出家者の悟りに達した聖者に布施を与えてこそ、その福徳によって大きな果/報酬を得、みずからあるいは亡者がそれを受けて善趣へ転生すると考えられているからである」(232-233)。
「こんにちの日本においては、妻帯世襲によって代表される出家者の世俗化にともなって、仏教が出家者の悟りのための宗教として機能しなくなり、在家者の葬式のための宗教としてのみ機能するようになっている。そのあたりに疑問を持つ在家者からは、いわゆる葬式仏教批判がしばしば起こされているが、その葬式仏教批判は、決して、在家者の葬式のための宗教を批判しているのではなく、あくまで、仏教が在家者の葬式のための宗教としてのみ機能するようになっていることを批判しているのであると考えられる」(233)。
なるほど、「出家者の悟りのための宗教」/「在家者の葬式のための宗教」という区分は、補助線として有効にみえる。ここでは、妻帯が「出家者の世俗化」と位置づけられている。とすれば、真宗などは意識的に仏教を世俗化していることになる。真宗など在家主義的な仏教(創価学会などを考えてもよい)は、この区分自体を破棄してしまって、「在家者のための宗教」が「葬式のため」にとどまらないことを要求することになる。
[J0563/250219]