岩波新書、1967年。

I  本書のねらい
 一 変貌する国土の景観
 二 復原の手がかり
II 古代・中世の大和平野の開発
 一 古代・中世の大和平野
 二 弥生遺跡・古墳・屯倉
 三 古都の立地と条里水田地割
 四 荘園の立地と開発の形態
III 小農村落の成立と海岸平野の開発
 一 小農村落の成立と小農の開墾
 二 河川に対する人間の戦い
 三 海岸平野の干拓
 四 大河川下流平野の開発

歴史と現在を行き来する個々の記述に価値があるのはもちろんだが、地理的決定論を批判する「本書のねらい」や「後記」などは、独立させて読んでも意義深い。

「今日われわれが目の前にみるわが国土の景観は、自然自体の変化のほかに、人間の手によって、意識的・無意識的に変えられたものを含んでいる」(p.11)。景観には、過去における労働力や生産力の高さが刻み込まれているのである。こうして、和辻哲郎の風土論などに含まれる地理的決定論を批判する。「人間労働によって変容され、現在においても人間の生産・生活の条件となっている「自然」を風土と考えるのは、私にとっては自然が人間の存在形態を決定するように考える考え方に対する批判の気持ちから出てくるのである」(p.221)。

こうして著者は、大和・河内・丹波・若狭・能登あるいは信濃などを訪ねて、その風土の歴史的形成過程を考えていく。前半部のハイライトは大和平野の古代的形成で、いつだか歩いた「山辺の道」を思い出しながら読む。

後半部ではとくに災害との関連も強調されていて、東日本大震災を経て、気候変動の影響が著しい現在の時点から読むと、新鮮に響く。

「弥生遺跡の立地が洪水の押し出した土砂の上に営なまれたのも、最も原始的な身を守る方法である。稀有の大洪水のさいに押し出された大量の土砂は、一定地域の氾濫原のなかでは、最も高い場所となる。そのような土地は通常の出水のさいには、周辺が水没しても島状をなしてみなぎる水の上に浮び上がることになる」(p.156)

「自然堤防はそれが作られた時の激しい氾濫の押し出した土砂の堆積物であり、日常の増水に対しては安全であっても、さらに激しい増水には安全ではない。そこに定着した人々は居住空間をおびやかす増水に対しては土俵を積み、土堤を築き、その根元に杭を打って、萱を束ねて土の流亡を防ぐという対応を重ねて増水による被害をまぬかれようとする。それらの努力がその地方一帯を治める領主の水防への努力と結合すればこれらの工作物は徐々に連続堤となっていく。しかし連続堤はその水防能力の限度内の水量には有効であるが、出水がその限度をこせば、破堤を生み、それまで支えてきた大量の水を一挙に堤内に侵入させることになる。人間の努力が通常の水を防ぎとめることによって、人間生活を広く川岸に進出されることも伴って、破堤による被害を甚大なものにする」(p.194);「水害は人間の生産や生活の場面が拡大することによってはじめて生じるのである」(p.195)

ずっとあと、大熊孝『洪水と治水の河川史』(1988年)に、洪水を完全に防ぐという不可能を追った場合、「仮に、千年確率の洪水を対象とした場合には、自然の基本的枠組みを破壊してしてしまうばかりでなく、突然ある世代にのみ大被害がしわ寄せされることになる」とあったのを思い出した。

[J0201/210920]