中島吉弘訳、未来社、1995年。原著のPowerは、1974年。権力論の古典のひとつということで。

1 序論
2 一次元的権力観
3 二次元的権力観
4 三次元的権力観
5 権力の基礎概念
6 権力と利害
7 三つの権力観の比較
8 難問
9 結論

権力理解の三類型を整理しているわけだけど、その類型と対応するところの、既存の政治学や社会学の前提を問い直すという意図がある。最初に批判の対象としておかれているのは、ロバート・ダールの権力論。

ここでは、前者・権力理解に関してのみ、自分用に整理とメモをしておく。なので「一次元的権力観」を「第一相の権力」と言い換えてみたい。第一相の権力とは、ある争点をめぐって、複数の主体が争う場合に行使される権力のことである。第二相の権力とは、利害の不一致に発する争点を争点化しないように誘導する権力である。第三相の権力とは、そもそも、ひとびとの知覚や認識、選好までを形づくり、伏在的な紛争を覆い隠す権力である。(この「伏在的な紛争」がまた論点にはなってくる。)

ルークスに言わせれば、権力の第一相と第二相しか捉えていない、従来の一次元的・二次元的権力観は不十分である。「人々が既存の生活秩序に代わる別の状態を考えたり想像したりできないためか、あるいはその秩序を自然で不変なものとみなしているためか、それとも神が定めた有益な状態として崇めているためか、そのいずれかの理由により、人々はそうした秩序のなかで自分の役割を受け入れているわけだが、まさにそうした形で、人々の知覚、認識、さらには選好までをも形づくり、それがいかなる程度であれ、彼らに不平不満を持たせないこと、それこそが権力の至高の、しかももっとも陰険な行使なのではあるまいか。苦情の不在は真正の合意に等しいと想定することは、定義上、虚偽の合意ないしは操作された合意でありうる可能性をあっさりと排除してしまうことになる」(40)。

ルークスのこの議論は、第三相の権力まで含めると、権力は意識的にも無意識的に行使される――そもそも行使という言葉が不適切だとも指摘している――としており、「知」の働きを強調したミシェル・フーコーの権力論と重なり合う。ただし、フーコーの場合は、「君主の権力」に対して「生-権力」を問題にしたように、その関心は近代に特殊な権力形態にあったが、ルークスの第三相の権力はより一般的な権力の形態であって、実際、彼が例のひとつとして強調しているのはヒンドゥー教のカースト制度である。

さて以下は、本書に掲載されている権力概念の模式図。(転載元:Nadine Naguib Suliman, “The Intertwined Relationship between Power and Patriarchy.” <https://www.mdpi.com/408978>)

Societies 09 00014 g001

この図で言うと、点線部分が権力とされているわけだけど、おそらく、Authorityと重なる部分のPower が第三相ってことなんだろう。たぶん。

先に述べたとおり、第三相の権力が覆い隠しているとされる「伏在的な紛争」が問題である。それは「有意味な反実仮想(レリヴァント・カンターファクチュアル)」によって、けして思弁的にだけではなく語りうるものだとされている。ルークスは、あくまで経験的な社会学や政治学の範疇内で議論を展開しようとしているが、この点を突きつめはじめると、それ以上の哲学的議論にもなってくるだろう。

[J0221/211217]