中公新書、2021年。

第1章 国造制はいつどのようにして成立したのか
第2章 国造制とは何か
第3章 国造の分布と国造の「氏姓」
第4章 「大化改新」と国造制
第5章 律令制下の国造

やっぱり、古代については断片的な情報しかなくて、社会制度や生活のリアルな様子というのはなかなか分からない。それはこの本のせいではなくて、むしろ「分からないことが多い」ということをきちんを教えてくれるところに本書の価値がある。国造に関する最新の研究状況を、これまで続いてきた論争の紹介とともに説明した一冊、推測に推測を重ねて「俺の古代社会像」を描くのではなく、研究状況の見取り図をしっかり示してくれているところが親切。

「史料上の「国造」の語に多様な意味のあることは、これまでもしばしば指摘されてきたところである。筆者は、次の五通りに分けられると考えている。(ア)大和政権の地方官としての国造 (イ)(ア)の国造を出している(あるいは出していた)一族全体の呼称 (ウ)律令制下の国造 (エ)姓としての国造(国造(こくぞう)姓) (オ)大宝2年(702)に定められた国造氏」(99)

国造の廃止について、筆者は、それが大化改新の評制施行によるという説に反対する。

「評制の施行は、「東国国司詔」第一詔に示されるように、すべての人々の数を調査し、納税の対象者である成年男子の数を戸ごとに書き連ねた程度の「造籍」を準備段階として行うことを前提としていた。つまり、「戸」を単位に、全国の人々を評(コホリ)という統一した行政組織をもって掌握しようとしたのであり、その評は「改新詔」第二条に示されるように「里」(サト)から構成されていた。そして、その「里」(サト)は、近年出土の木簡から、「里」と表記される以前は「五十戸」と表記されていたことがあきらかになり、「五十戸」の官人(のちの里長)は、「五十戸造」と表記されたことも明らかになってきている。評制施行後の地方支配制度は、国造(クニノミヤツコ)-評造(コホリノミヤツコ)-五十戸造(サトノミヤツコ)という三段階の組織(クニ-コホリ-サト)であった。・・・・・・評制の施行により、国造自身の直接支配した地域・集団も評に編成されたのであり、その評の官人(評造)には国造の一族の人物が任命されたと推定される」(178)

島根県民的には、国造といえばやはり出雲国造(コクソウ)であり、本書も紀伊国造とともに出雲国造の地位や歴史の特殊性に触れている。

[J0222/220110]