ちくま文庫、2018年、原著2009年。

第1章 落語、この素晴らしきもの
第2章 「自我」は「非常識」をも凌駕する
第3章 “それ”を落語家が捨てるのか
第4章 そして、三語楼へとたどりつく
第5章 芸は、客のために演るものなのか

落語も談志も知らないのだが、今回のM-1グランプリで、志らくがランジャタイの漫才を形容するのにやたら、「イリュージョン漫才」と言うものだから、「イリュージョン落語」なる概念を知るべく手にとったというわけだ。サンキュータツオ氏の解説によると、談志のイリュージョン落語の概念自体、変遷があるらしい。

「ディズニーのファンタジー映画のようなもの、とも言える。きらびやかな光線が空のあっちこっちから射してきて、二本の光線が交差する、その交差した点こそ、イリュージョンである」(60)。ふむ?「伝統的な落語を、落語リアリズムをきっちり演れて、さらにイリュージョンが理解(わか)る才能もある、という両方がなければ、家元〔談志〕は評価しない。なぜならば、イリュージョンはあくまでも添え物であるからだ」(61)。ふむふむ?

イリュージョン落語とどう関係するのかは別として、落語論としては、こっちの方が分かる気がする。つまり、「落語を聴き、己の生活、性格等々と〝がっちり合う〟フレーズと出会ったときの喜び。それが落語ファンの〝堪らない〟フレーズとなる。また、落語家のほうでも、〝合う〟という自信を持っている。これらが、キラ星の如く入っているのが落語である」(56)。それにしても、これだけ毒舌・批判的で、なんなら厭世的な雰囲気もある談志でも、落語そのものに対する愛情だけは揺るがないのだな。落語を愛するあまりの毒舌と考えれば、順序が逆かも知れないが。

「庶民は相手にしない」。「若い頃は、いい芸を演れば、客はシュンとして聴くと思っていた。ナニ、それは芸だけに非ズで、食べ物であろうが、音楽であろうが、演劇であろうが、素晴らしければ素晴らしいほど、言葉は出ないはずだ、とね。ところが、そうではなかった」(217)。落語への信頼と世間への失望のはざま、自己嫌悪と自負のはざま、文章で読めば真っ正直なことが分かる。直に会ったら、きっと面倒くさかっただろうことも分かる。

[J0224/220112]