河出文庫、2017年、原著は2006年。

第1章 カネを吸いあげる二つの回路
第2章 国家と暴力について
第3章 法的暴力のオモテとウラ
第4章 カネと暴力の系譜学

ジャーゴンを排した平易な言い回しで、ヴェーバー、ドゥルーズ=ガタリ、アーレント、フーコーなどの議論を踏まえながら、国家の「合法的な」権力の成立について思考を巡らせる。したがって、もちろん著者の思考の流れにかかわるかぎりにおいてではあるけれども、これら諸論者の思想の一端に触れるきっかけとしても、良い本なのではないか。

内容としては、国家成立の鍵として、マルクス経済学が言うところの本源的蓄積の問題が次第に焦点となっていく。本書の半ばすぎまでは、既存の議論を著者流に説き直していくという風で、「そうそう、そうね」というくらいに読み進んでいったが、終盤になって著者自身の考えの本体が明らかになる。

要約すると。所有は占有とは異なる。占有とは、あるモノを物理的に所持することであるが、なにかを所有するためにはそれを物理的に所持し占有している必要はない(152)。そして、モノの所有とは〈富への権利〉の基礎にある。公的所有制を確立させた国家は、2つの方法で、他人の労働の成果を自分のものにする(161-)。ひとつは、〈暴力への権利〉に基づいて、富を徴収する。もうひとつは、〈富への権利〉つまり所有のもとで労働を組織化し、人々を働かせてその成果を吸いあげる。その2つの方法が分離・分化したのが、資本主義社会にほかならない。資本主義社会では、〈富への権利〉は〈暴力への権利〉と切り離され、政治的な身分制度と切り離される。資本主義を国家制度と対置させるマルクス主義的な見方とは異なり、資本主義は国家から派生してきたのだ。

著者の筆致はシンプルをきわめているが、暴力やカネのありかたを論じて、空中戦になりがちな従来の議論と比べても、なにかリアルな手応えが感じられる主張になっている。

[J0227/220127]