講談社、2003年。『誰も書けなかった石原慎太郎』というタイトルで文庫化もされている模様。

第1部 海の都の物語
第2部 早すぎた太陽
第3部 「てっぺん」への疾走

石原慎太郎氏が亡くなった、昨日その報を聞いて読む。記憶を失っているが、もしかしたら再読かもしれない。2003年と言えば、300万超え、70%という圧倒的な票を得て、都知事への二選を決めた頃。石原慎太郎という人の不思議な立ち位置は、きっと時代が過ぎれば分からなくなっていくだろうから、そこを追究したこのような評伝の存在は貴重。

「慎太郎人気はよく空気のようなものだといわれる。しかし、大衆は人物そのものというより、その人物の背景にある空気にこそ反応する」(41)。こうして著者佐野眞一は、父親の生まれ育ちをはじめとする慎太郎のルーツを徹底的に辿っていく。

石原慎太郎や裕次郎と言えば、『太陽の季節』以来、ハイソな坊ちゃん的なイメージを持たれがちだが、けして貴族的な家庭の子どもではないという。父親の潔は、山下汽船という戦時下の新興企業のやり手・名物社員だったようだ。若い頃に社内でも問題を起こして樺太に飛ばされるが、タコ部屋の人足を使いこなしてのしあがるような人物。この父親からして、荒々しさとダンディズムを兼ね備えた人であったらしい。

兄弟は神戸に生まれ、小樽で幼少期を過ごし、1943年、慎太郎が10歳、裕次郎が8歳のときに湘南・逗子市へと移り住む。1951年、湘南高校時代に父親潔が急死すると、石原家の経済は傾いた。そこで一発あてることに成功したのが「太陽の季節」であった。世代の人には周知のことなのかもしれないが、「太陽の季節」の映画化が進められ、そのときに映画会社の事情で主演を務められなかった慎太郎の代役として抜擢されたのが、裕次郎のデビューだったという。一橋の学生時代に発表した「太陽の季節」がノミネートされた文學界新人賞選考のとき、大きく評価が分かれたこの小説を読んだ武田泰淳は、「彼は小説家より大実業家になるかも知れない」と評したとのこと、凄い。実業家と政治家のちがいがあるにしてもだ。

「「太陽の季節」の小道具として効果的に使われた人も羨む湘南での豪奢な生活とヨットは、潔が慎太郎に残してくれた最大の遺産だった。そして潔の急死による弟・裕次郎の放蕩生活は、いわば潔の負の遺産だった。慎太郎は、潔の死後、破綻に瀕した石原家の財政事情を何とか立て直すべく、その潔の遺産を二つながら活用して「太陽の季節」を世に問うた。そして、ありあまるほどの名声とともに、悲願だった一攫千金の夢を実現した」(251)

子どもに対する慎太郎の溺愛は、子にヨットを買い与えた潔譲りのものらしい。

この評伝のポイントポイントで出てくるのは、宗教、とりわけ世界救世教との深い関わり。父母とも世界救世教に傾倒し、慎太郎自身もその繋がりで若くして妻・典子を娶ったが、裕次郎だけは距離を取っていたようだ。後年では、小谷喜美の霊友会との関係を深めて、「慎太郎が参院選で獲得した三百万票のうち、百万票以上は霊友会関係の票ではなかったか」という証言まで紹介されている。なお本書では、慎太郎本人ではないが、彼の腹心で東京副知事にもなった浜渦武夫が、密かに統一教会と関係を持っていたことにも触れている。

本書後半は、慎太郎の歩みを辿りながら、彼の特異なパーソナリティに切り込んでいる。たしかに、三島由紀夫や田中角栄などとも対照してみたくなる、石原慎太郎という人物。佐野は、「太陽の季節」が文学の主流にはならなかったことを引きあいに出しつつ、2003年当時「総理にしたい男No.1」ともてはやされている慎太郎も、結局は総理にはなれないだろうと匂わせて本書を締める。今になってみれば、その予想は当たったことになる。

僕にとって、佐野が描いた慎太郎の両面性は、東日本大震災のときに証明されている。まったく許しがたい「天罰」発言をした一方で、風評被害で受け入れ先に窮していた岩手県などの震災がれきを、都知事としてまっさきに受け入れてくれたことは忘れられない。親交のあった谷川俊太郎による印象的な慎太郎評、「価値観は全然違いますが、あの人柄がすきなんです。あいつは危険だといっている人もいっぱいいますが、僕はみんなが思うほど危険だとは思っていないんです。ただ、『太陽の季節』以来一貫してある、弱い者への同情とか共感があまり感じられない点だけは、政治家だけに、僕も多少ひっかかります」(341)。

なお、最近、YouTubeなどで、「石原慎太郎が忘れ得ぬ東京裁判で味わった屈辱とは」みたいな広告が流れてくる。本書でも、中学生の慎太郎が東京裁判を傍聴したことが、「とりわけ興味深いエピソード」として取りあげられている。慎太郎自身の談として、「親父が入場券を買ってきてくれたんで、二回行きましたよ。隣の家の東大に行っているお兄さんに連れていってもらった。下駄を履いて行ったんだけど、着くと脱がされてね。雨の日で寒くてね。冷たい階段を裸足で登って、傍聴席でまた下駄を履いた」云々との記述(196)。「屈辱」なんていうニュアンスはまるでない。

[J0229/220202]