濱野大道訳、ハヤカワノンフィクション文庫、2021年、英語原著は2017年。

プロローグ 固体化した気体
第1部 波の下の学校
第2部 捜索の範囲
第3部 大川小学校で何があったのか
第4部 見えない魔物
第5部 波羅僧羯諦―彼岸に往ける者よ

読むのがいろんな意味できつい、厳しい、気軽には読めない。この震災については取材する機会もあったのかもしれないが、やはり自分には無理だったと改めて分かる。彼の場合はジャーナリストとしての使命感なのだろうか、ここまで徹底して取材をすれば、確かに意味が出てくるように思う。

東日本大震災関係のルポの中では、一番よく出来ているように思う。震災の体験は地域それぞれ、人それぞれでしかない。石巻でも浪江でも、一部の話だけでは一部の話にすぎない。この本の焦点は大川小学校というきわめて特殊な事件の関係者に当てられているが、その記述を積み重ねるなかで、この震災全体に通じる事情も同時に辿られているように思う。たとえば、「被災者」間での苦悩や共感や遠慮、そして格差と断絶といったこと。それが可能になっているのは、著者がつねに、日本文化や日本社会の特徴に目を向けていることもあるだろうし、それ以上に、人々の経験のディティールを、物語化しすぎずに記述しているからだろう。これこそジャーナリズムの意義かもしれない。

この本のもうひとつの焦点は「心霊現象」にある。ただし、著者はあくまで、それだけを切り出すのではなく、人々の被災経験全体の一部として記している。自分のもともとの気持ちでもあるが、この記述全体を読んでいると改めて、これだけの悲劇的な体験であれば、多少の心霊現象は起きても当然という感覚になる。拝み屋的なものや宗教一般を全肯定するわけではないが、これだけの出来事、これだけの体験を心理カウンセリングが受けとめられるだろうか。

自分は、2008年まで17年間東北に暮らして、もちろん同時代人としてこの出来事を経験した人間であるが、一方では2011年には遠隔地にいて、その後の「復興」過程に「当事者」として関わったわけでもない。この震災をこういう立場で経験した/しなかったという事実の意味を、繰りかえし考える。

[J0232/220213]