平井呈一訳、恒文社、1975年。以下の三冊を合本として収める。

『霊の日本』(In Ghostly Japan, 1899)
『明暗』(Shadowings, 1900)
『日本雑記』(A Japanese Miscellany, 1901)

民俗学的なエッセイや再話文学に、彼の「幻視」や幻視の哲学(いわば)が入りまじり重なりあう、ハーンの仕事。たとえば、犬の遠吠えに自然法則の存在を考えたり、日本における女性の名前を集めて文化的な意味を解釈したり、幽霊に対する戦慄に進化論的な記憶を見いだしたり。

かねてよりハーンの書き物の中では、『霊の日本』の冒頭の短文「断片」に一番惹かれるのだが、『明暗』中の短文「夜光虫」も、同じように強烈な印象を残す幻想文学だ。夜光虫の輝きを眺めているうちに幻視が流れ込んできて、「自分はそのとき、この自分もやはり同じように、一個の燐光であると知った。――この無尽無窮の流れのなかに浮かぶ、うたかたのごとき一個の閃きにすぎないと知ったのである」とつぶやく(331)。宮沢賢治『春と修羅』の交流電燈を思い出させるようなくだりだが、ハーンには、宇宙と調和し一体化していく賢治にはない、宇宙と対峙した瞬間における戦慄の感覚がある。

たんなる「日本礼賛」の著述家という枠には収まらない、激しさ。随筆「夢の本から」は、「人間が、自分のなかにいる魂の群にいった」から書き起こされる、人間と「魂」との対話の話。

――「いや!」と魂どもは叫んだ。「目標は強い者のためにあるんだよ。そいつは、おまえさんなんかにゃ、いくらがんばって行きつけっこないよ。……おまえさんとおれたちは土に還るんだ。まあ、考えてみるんだな、おれたちにも、あればあったはずの盛りの時をな!むざむざ捨ててきた喜びを、愛のかずかずを、いくつもあったはずの勝利をな!夢にも考えなかった知識の夜明け。想像もしなかった感覚の壮観。限りない力の大歓喜!このうすらとんちき!自分が失った一切のものを、ちっとは考えてみな!」といううちに、人間の魂どもはひとりでに虫に化したとおもうと、見る見るうちに人間を食らいつくした」(384)

ハーンの日本文化の記述は、当時における貴重な観察ではあっても、やっぱり学術的な記録という枠組みから外れる部分も大きい。まなざしのあり方が、ゴーギャンが描いたタヒチに似ていると思う。ゴーギャンもハーンも、一時期マルティニークに滞在していたことがあるというのは、偶然だろうけども。

[J0241/220225]