副題「3.11後の「言ってはいけない真実」、講談社現代新書、2018年。

序章 「すまん」原発事故のため見捨てた命
第1章 声を上げられない東電現地採用者
第2章 なぜ捨てるのか、除染の欺瞞
第3章 帰還政策は国防のため
第4章 官僚たちの告白
第5章 「原発いじめ」の真相
第6章 捨てられた避難者たち
エピローグ

1.本書の内容から

福島原発事故に関わる被災者支援や除染作業、原発政策、さらには被災者いじめをめぐる学校の「欺瞞」の数々を直接取材を通して明らかにする。報告の全体を通して、改めてこの問題の深刻さと、日本の政治や社会が抱える問題体質を痛感する。以下は部分部分で、改めて気づきのあった点。

表面的な復興を語りたがる帰還政策について、住民からの声。「せめて第一原発からデブリが取り出せた後で復興を考えたらどうか」(118)。

原発を密集させることの危険。「福島第一原発では1~4号機が密集していたため混乱し、爆発が続いた。福島第一原発の事故時は吉田昌郎所長も被害日本壊滅を意識したほどだ。密集していると事故時のリスクが何十倍にもなる」(127)。

それから、やはり原発推進政策の裏には、核武装という政策的狙いがあることは明らかだと言うことが分かる。著者が取材した原子力ムラに関わっていた専門家の話によると、国が核武装をすると決めれば、一年以内にはできるとのことだ。

政府が東電を守る理由、原子力損害賠償法。これの免責事項(異常に巨大な天災地変)を適用すると、国に賠償責任が生じる。それで、経産省が「東電を守るので免責事項に当たると言わないように」と密約をしたという話。がれき撤去による放射性物質拡散も、この論理からうやむやにされたと推測されるとのこと。

2.ジャーナリズムの社会的意義

さて、直接この本の中に書かれていることではないけど、新聞記者としてデスクとやりとりをしながら取材を進めていった様子が記されており、新聞をはじめとするジャーナリズムの社会的意義というものがこの書には示されている。地道な取材に基づき、政府や行政の闇を暴くこういった告発は、ネット上のメディアだけでは、少なくとも今のところは不可能ではないか。

(と思って、青木さんの名前を検索してみたら、朝日新聞社内で左遷されて記事を書けなくなったとかなんとか。)

3.現在の情勢から思うこと

原子力発電所の危険性については、2011年以前も決して「予想外」であたわけではない。大事故の可能性も、理論上は薄々知りながら、同時に「絶対安全」のかけ声になんとなく乗っていたのだ。今回のロシア軍によるウクライナの原発への攻撃で、また同じことが起こっていると感じる。私たちは、原発への攻撃やテロがありうることを薄々知りながら、「でも実際にはだいじょうぶ」と、本気にしてこなかったのではないか。そしてその「スルー」の構造は大地震や噴火の可能性にも当てはまる。どこかの火山が噴火して日本各地に存在する原発のどこかに被害が生じたときに、私たちはまた、「まさか噴火するとは」とつぶやくのだろう。

もうひとつ、「危機」というものが一瞬で経過する大爆発やカタストロフィとイメージされすぎており、原発の問題では特にそうだ。本書では、福島原発から放射性物質が漏れ出しつづけている様子が描かれているし、頑強な反・反原発主義の人でも、今現在も溶解した核燃料が、近づくことも移動させることもできずに「そこにある」ことは否定できないだろう。実際にこれが「安全な日常」と言える状況だろうか。同様に、「復興」が語られる今も、少なからぬ被災者たちの生活は「安全な日常」からはほど遠いということが、本書には示されている。

震災の話その他から気づいたことは、危機とは必ずしも危機と意識されることがなく、感覚の麻痺を伴いながら、じわじわと日常を蝕むようなあり方をするものだということだ。絶対にあってはほしくないが、これからウクライナの戦争が拡大・飛び火していったら、2022年3月という今現在の、日本を含むこの世界が、すでに「戦時下」にあったということがはっきりするだろう。

(どうもしかし、こうやって記事を書いていると「どうせこうなる」調になってしまう。もちろん、なんとかしたいのだ。)

[J0250/220312]