高階秀爾監修、田辺希久子訳、創元社、1992年。「知の再発見」双書シリーズの一冊、副題は「私の中の野生」。著者のフランソワーズ・カシャンはオルセー美術館の館長を務めた人だそうで、原著は1989年。

第1章 遅い出発
第2章 ポンタヴェンの神話
第3章 ゴーギャンとゴッホ
第4章 タヒチ讃歌
第5章 モンパルナスの孤独
第6章 情熱の最後の輝き
資料編 失われた楽園を求めて

「小泉八雲にとっての日本は、ゴーギャンにとってのタヒチのようなもの」という思いつきが自分で気に入って、改めてこの本を手に取ってみた次第。ゴーギャンは1848年生まれ1903年没、ハーンは1850年生まれ1904年没で、まさに同時代人でもあった。

類似点。どちらも、ヨーロッパ文明に違和感を抱いていたところ。出自からして、放浪への志向があったこと。(彼らの理解するところの)アルカイックなものに惹かれていたこと。ゴーギャンはブルターニュも愛していたようで、どちらもケルト文化との親和性を示していたこと。マルティニークも、ふたりに共通したゆかりの土地。

相違点。ハーンは、彼のルーツのひとつであるギリシャ文明にしばしばインスピレーションを得ていたが、ゴーギャンはそれを嫌っていたらしいこと。ゴーギャンが堂々とした、あえて傲慢な態度を取るようなタイプの人だったこと。ハーンは子どものときから肉体的なハンディの多い人だったのに対し、軍隊生活の経験もあるゴーギャンは、健康を害するまでは逞しいタイプだった様子がある。

ゴーギャンの作品や生活には、セクシャルなモチーフが多いのも特徴的。ゴーギャンはタヒチでの幼妻をはじめ、身近な女性を多く絵にしている。一方のハーンは、理念としての愛を哲学的に語ったり、再話作品に愛の悲劇をよく取りあげてはいても、たとえば妻セツに対する賛美といったものは、管見のかぎり読んだことがない。なお、実生活における愛妻家ぶりについては、いくつもエピソードが残されている。ハーンが持っていたプラトニック・ラヴへの志向は、彼が日本におけるある種の近世文学(武士の物語など)とよく馴染んだ理由でもありそうだ。ハーンの場合、女性のイメージとはまずなによりも、母であった。対してゴーギャンは、暖かい家庭を築くタイプからはほど遠かった。

ゴーギャンが結局、タヒチにも安住することができなかったのに対して、ハーンは日本に帰化し、当地を終の棲家とした。「小泉八雲にとっての日本は、ゴーギャンにとってのタヒチのようなもの」。そこにヨーロッパが失った、郷愁を帯びたユートピアを認めたという意味では、このように言えるのではないか。ただ、彼ら二人が歩んだ実際の人生においては、それぞれの土地の意味はかなり違っている。幻視家であった八雲の作品が日本文化の「再話物語」になりえているのに対し、ゴーギャンによるタヒチの絵画のほうが、なにか浮遊感のある幻想画のようにみえるのは、彼らがそれぞれの土地に実際に根を下ろすことのできた度合いのちがいを反映しているのだろう。

[追記]
画家のゴーギャンには「カトリック教会と近代」「近代精神とカトリシズム」という教会批判の原稿があり、その一部だけは『オヴィリ』(みすず書房)に収録されている。彼もまたキリスト教そのものというより、教会の「超自然主義」や道徳の押しつけを拒否していること。彼のタヒチにおける「不道徳」は、反教会や反宣教師の精神と結びついていた。

『オヴィリ』編集者ダニエル・ゲランのコメント。「ゴーギャンは、予言者たち、福音書の著者たちの特殊な表現の中には、多かれ少なかれ蔽いかくされている象徴乃至たとえだけを見るべきだ、という考えを抱いていた。これに反して教会は、不合理にも文字通りにとったため、それを馬鹿げたものにしてしまったのである。一方、彼は、《神を殺そう》とした後、ティヤール・ド・シャルダンに先立って、教義の垢を洗い落としたキリスト教と、近代の進化論ならびに民主主義とのあいだに、綜合を見出そうと試みている。他方、聖職者至上主義に対する彼の痛烈な非難は、彼を――これは読者にとって、小さからぬ驚きであろうが――無政府主義的、反国家的な結論へ、ブルジョワ道徳の悪罵へとみちびいた」(203)。

『オヴェリ』の抜粋はごく短いので明瞭には分からないが、ゴーギャンでも進化論への傾倒があるというのは興味ぶかい。そしてその進化論的発想が、どのようにタヒチへの想いと繫がっているのか。「ハーンの日本、ゴーギャンのタヒチ」問題(?)、この観点からでも掘りさげられそうだ。

[J0251/220315]