今井出版、2022年。

序章 嘉儀金一郎とは誰か
第一章 嘉儀金一郎の生涯
第二章 嘉儀金一郎が目指した酒造り
 一 松江税務管理局
 二 大蔵省醸造試験所
 三 福島県会津若松
 四 広島税務監督局
 五 神戸灘 櫻正宗
第三章 「山廃酛」とは何か
終章 嘉儀金一郎が遺したもの
特別寄稿 祖父金一郎について(嘉儀隆)

生酛と呼ばれる酒母をつくるために必要な重労働「山卸」を行わずに、麹のもつ酵素の力で米を溶かす「山卸廃止酛」の製造法(山廃仕込み)を確立した、松江出身の技術者、嘉儀金一郎(1973-1945)。

もともと日本酒の酒母は、水酛(菩提酛)と呼ばれる製造法を取っていたが、雑菌が生育するリスクが高かった。そこで江戸時代に伊丹・灘を中心に開発されたのが、寒造りの生酛であった。生酛の発明によって酒の質は安定したが、生酛の仕込みは寒中の厳しい作業と、広いスペースが必要であった。

「山陰地方では、明治期までは小規模な酒蔵が多いために「生酛」よりも「水酛」による製造が主流であった。この製造方法が原因と考えられるが、金一郎が松江税務局に勤めていた明治34、35年(1901、1902)に行われた全国の清酒の分析結果では、松江局管内の清酒(試料数八点)は、「全て腐敗清酒に分類」されていた。この「腐敗酒の定義」は、実際に腐敗しているのではなく、「発酵が不完全で、雑味が多く、糖や酸度が高い清酒ということで、いずれにしろ山陰の酒は「濃厚であり酸っぱかった」ようである。」(57)

はやくも山廃酛が発表された次の年、明治43年(1910)には速醸酛・連醸酛が発表されて、山廃酛と速醸酛は同時に普及が進んでいったようである。速醸酛の方がより製造が簡単であり、高精米の淡麗型酒質に適していることから、現在では速醸酛が9割を占めているという。一方で、より濃厚な風味を好む「燗係者」には、山廃づくりや生酛づくりが好まれているというわけだ。

[J0257/220413]