副題「〈地球と人類の時代〉の思想史」、野坂しおり訳、青土社、2018年、原著は2013年、改版が2016年。

 序言
第一部 その名称は人新世とする
 1章 人為起源の地質革命
 2章 ガイアと共に考える:環境学的人文学へ向けて
第二部 地球のために語り、人類を導く:人新世の地球官僚的な大きな語りを阻止する
 3章 クリオ、地球、そして人間中心主義者
 4章 知識人とアントロポス:人新世、あるいは寡頭政治新世
 第三部 人新世のための歴史とはいかなるものか
 5章 熱新世:二酸化炭素の政治史
 6章 死新世:力と環境破壊
 7章 貪食新世:地球を消費する
 8章 賢慮新世:環境学的再帰性の文法
 9章 無知新世:自然の外部化と世界の経済化
 10章 資本新世:地球システムと世界システムの結合した歴史
 11章 論争新世:人新世的な活動に対する1750年以来の抗議運動
結論 人新世を生き延び、生きること

「人新世」について知ろうと、概説書のつもりで手に取ったが、この書自体が重要でオリジナルな思想史的研究だ。「人新世」概念提唱の書ではもちろんあるのだが、ただちに批判的な検討も加えている。僕流にパラフレーズするなら、マックス・ヴェーバーとジェームズ・ラブロックを真剣に総合させなければならないということ。この本を手がかりに、この方向に思想を深めていこうと啓発された次第。

「人新世」という言葉は、オゾン層研究でノーベル賞を受賞した大気科学者パウル・クルッツェンが提案して一般化したものらしいが、ちょっと調べると、その前に用いた人物もいたはいたらしい。

「もし数百年後にその時代の地質学者が我々の時代が残す岩石化した堆積物を調査することがあれば、彼らはそこに急激な転換を見いだすだろう。それは我々の時代の地質学者が地球の数十億年の歴史の中に生じた急激な転換、例えばよく知られた白亜紀から第三紀への推移、すなわち六五〇〇万年前に隕石が現在の中央アメリカに衝突し、地球上の生物種の四分の三の消滅へ導いたときに形成された転換と同じくらい顕著で急激なものとなるだろう」(29)。

人新世という認識は、分断された自然と社会を否定する。「そして、わずかな修正を加えるだけで経済システムは永遠に発展を続けるという期待に疑いを投げかける。環境に代わり、今や地球システムがそこにある」(37)。

「我々は人間と自然の和解という、政治の下位にある平和主義的な問題系の中にいるのではない」(45)。「人新世は政治的」なのである(45)。自然と人間に関する近代的な認識は誤りである。「要約すると、物理的な自然科学がその研究対象となるものの性質と客観性の概念を踏まえ、自身を非人間的なものだと主張する一方で、人間社会科学は自身を非自然的なものとみなし、自然決定論から自らを切り離すことが人間の成り立ちに固有のものであると考え、「社会」に完全なる自己充足性を与えた。・・・・・・このような構造が、ペーター・スローターダイクが「舞台裏の存在論」と呼んだ、社会的なものが自然に関与していることを隠蔽する仕組みとなったのである」(51-52)。問題視すべきは「人間例外主義」である(60)。そしてまた同時に、「人新世学者は大文字の〈自然〉、すなわち人間に対し完全に外部的なものとして見られていた自然の死を宣言することが可能になった」(112)と言われる。

人新世概念は、従来の近代化論の見直しを迫るものであるが、ボヌイユとフレソズはとくに、産業革命以降あるいは二次大戦後の動向を、それが「大加速」の時代であることを認めつつも、決定的転換点を見ることを強く批判し、人新世がずっと長期的な変動であることを主張する。「結論として言えるのは、一九四五年以降の地球システムに対する人間影響の深刻さと規模の変化が明白なものであるとしても、曲線の傾斜は歴史的時代や地質時代の始まりを決定づけるには事足りず、ましてや歴史的な因果関係の説明に取って代わることができるほどに十分な要素だとは言えないということである」(78)。

ボヌイユとフレソズは、フーコーの生-権力概念になぞらえて、「知-権力」という概念を提示する(115)。「生命に続き、同時に知(地-知識)と統治(地-権力)の対象になるのは、岩石圏から成層圏までを含む地球すべてである」(116)。

「我々の世代がはじめて環境異常を認知し工業的近代に疑問を投げかけたとみなすエコロジカルな覚醒の語りの問題点は、過去の社会においても存在していた省察を徐々に消し去ることで人新世の歴史を非政治化することにある」(212)。「したがって、人新世の歴史が立脚すべきなのは、自然の問題が考慮されていなかったために不注意から環境破壊が生じてしまったということではなく、近代人が環境に対する賢慮(ギリシャ語ではフロネシス)を有していたにもかかわらず環境破壊は起きたという、頭を悩ませるような逆説的事実でなくてはならない」(213)。ほんとにそうだ。古典的な啓蒙・啓発モデルは根本的な解決をもたらすようにみえない。「人新世の諸社会が環境を破壊したのは、不注意からでも自らの行動の結末に対する考慮の不在からでもない。それどころか、人々はときに自らに環境にもたらす影響に恐れ慄くことすらあった。そうであるならば、我々は前章で確認したような環境学的文法を有していたにもかかわらず、どのように人新世に足を踏み入れたのだろうか。これに関して近年、科学史や科学社会学の分野で発達したのが無知論(アグノロジー)と呼ばれる研究領域である」(244)。きわめて興味を惹かれる論点だが、本書第九章は期待した「無知論」の記述になっていない。自分で調べないとと思って引用文献をみたら、あれっと。Robert Proctor の本は、机の脇に未読の状態で長年積んであるやつ。

「経済の脱物質化」。「現代のスタンダードな経済学理論は物質に対し、ごく僅かな関係しか持たない。それは財産の持つ有用性や心理学的効果については考慮するが、物質的な特徴については考察しない。そして、資本は具体的な生産装置の総体としてではなく、金融的な流れを生み出す資産であるとみなされている。このような脱物質化は人新世の時代の指数関数的な経済成長を自然とみなすことを可能にし、経済をあらゆる物質的基盤から断ち切ったのである」(256)。諸富徹『資本主義の新しい形』などに示される「資本主義の非物質的転回」論はそれはそれでおもしかったが、ボヌイユとフレソズは、経済の脱物質化をもっともっと長いスパンでの傾向として捉えている。経済の脱物質化は、世界を経済化し、自然環境を経済化することで、人間が世界や自然を完全に制御しているという幻想と結びついたのである(269)。

産業革命以降の大加速を相対化する論調のわりに、フランス人らしく(?)、その時代におけるイギリスの悪行ないし「生態学的債務」を強調しているのがちょっとおもしろい。

付記、26ページの「大洪水」のグラフ、Will Steffenの元論文にあたっても、このグラフだけ見あたらない。ボヌイユらが足したのか、邦訳で足されたのか。どうも怪しい情報。

[J0258/220414]