矢橋透訳、みすず書房、2008年、原著1970年。
- 歴史はけっして確実なものではない
- 憑依はいかにして起こったか
- 魔術のサークル
- 憑依の言説
- 被告ユルバン・グランディエ
- ルーダンにおける政治―ローバルドモン
- 予審開始(一六三三年一二月‐一六三四年四月)
- 憑依者の劇場(一六三四年春)
- 医師の視線(一六三四年春)
- 真実の奇形学
- 魔法使いの裁判(一六三四年七月八日‐八月一八日)
- 刑の執行(一六三四年八月一八日)
- 死のあと、文学
- 霊性の時―sジュラン神父
- ジャンヌ・デ・ザンジュの凱旋
17世紀、フランスの地方都市ルーダンで生じた修道女集団憑依事件の詳細なる記述と考察。セルトーの論点は、憑依一般ではなく、この憑依事件に現れている時代の――中世から近代への――転換である。
「ある歴史的瞬間、つまり、宗教的指標から政治的指標への転換、天上的宇宙論的人類学から、人間の視線によって自然物が配列される科学的構成への転換の瞬間にかかわったルーダンの憑依は、また歴史における異なるものにも開かれている――憑依の変容によって引き起こされる社会的反応という、かつての悪魔とは異なっているが同様に不安を与える、新たな社会的他者の形象が浮上してきて以来問われ続けている問題にも、開かれているのである」(363)
と、時代的変遷の描写が中心だとしても、やはり悪魔憑きそのものや、裁判の記述に対する興味が勝る。すさまじい憑依の様子は、高田衛が『江戸の悪魔祓い師』で紹介した、まさに同時代の日本のことであった、祐天の憑き物落としを思い起こさせる。
ただ、江戸とルーダンとで異なると思うのは、ヨーロッパの悪魔憑きは、なにか一般人の世界観や存在そのものを揺さぶるような種類の恐怖を感じさせることだ。逆にそこから、教会の巨大な権威も生じたのだろう。日本の宗教史は、個別の出来事としての自然災害に対する恐怖はあっても、世界や存在が覆されることに通じる、この種の恐怖を欠いているように思う。
[J0302/221004]
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