初版は1776年。水田洋監訳、杉山忠平訳、岩波文庫、全四巻、2001年。
急にずいぶん古典だが、読みそびれてきた古典にもたまには目を通すということで。

第一編  労働の生産力の改良、および労働の生産物が国民のさまざまな階級のあいだに自然に分配される順序について
第二編 貯えの性質と蓄積と用途について
第三編 さまざまな国民における富裕の進歩のちがいについて
第四編 政治経済学の諸体系について
第五編 主権者または国家の収入について

いろんな読み方が可能な著作で、イギリスを中心とした当時の世界情勢・社会情勢を知る本としても読める。とくに、エディンバラ出身でグラスゴー大学で教鞭をとっていたスミスの目を通して、当時のスコットランドの様子もよく描かれている。

後世の諸思想や経済学の諸概念との関連について、整理してみたいと思う論点は多いが、さしあたりそれらは措いて、メモ的にいくつかのトピックを記しておく。

「自由人によってなされる仕事のほうが、奴隷によってなされる仕事よりも結局は安くつくということは、あらゆる時代、あらゆる国民の経験から明らかだと私は信じる」(I: 147)。この論点については、植村邦彦『隠された奴隷制』(集英社新書、2019年)でも論じられていたところ。

「あらゆる国の土地と労働の年々の生産物全体、あるいはこれと同じことになるが、この年々の生産物の全価格は、すでに述べたように、土地の地代と労働の賃金と貯えの利潤との三つの部分に自然に分割され、地代で生活する人びとと賃金で生活する人びとと利潤で生活する人びとという、三つのことなる階層の人びとの収入を構成する。これらの人びとはあらゆる文明社会を本来的に構成する三大階層であって、他のどの階層の収入も彼らの収入から究極的には引き出されるのである」(I: 431-433)。

ふむ。

「労働のうちである種類のものは、それが投下された対象の価値を増加させるが、もう一つ別の種類の労働があって、それはそのような効果をもたない。前者は、価値を生産するのだから、生産的と呼び、後者は不生産的とよんでいいだろう。こうして製造工の労働は、一般に、彼が加工する材料の価値にたいして、彼自身の生活費の価値と彼の雇主の利潤の価値をつけ加える。これに反して、家事使用人の労働はなんの価値もつけ加えない。製造工は彼の賃金を雇主から前払いしてもらうとはいえ、実際には、雇主にとってなんの費用もかからない。その賃金の価値は、一般に、製造工の労働が投下された対象の増大した価値のなかに、利潤とともに、回収されるからである。ところが家事使用人の価値はけっして回収されない。人は多数の製造工を使用することによって富み、多数の家事使用人を維持することによって貧しくなる。ただし、後者の労働も価値をもっており、前者の労働と同じように報酬に値する」(II: 109)。

 なんとも気にかかる論述だ。ある意味、今では/今でも常識的な見方かもしれないが、富とは何のための、何にとっての富かということまで考えてしまう。まさに the wealth of nations の、wealthとは富なのか福祉なのか、nationsとは国なのか国民なのかという問題。なお、本書の正式なタイトルは、An Inquiry Into The Nature and Cause of The Wealth of Nations である。

「商業と製造業は、農村の住民のあいだに、秩序とよき統治を、またそれとともに個人の自由と安全を、しだいにもたらしたのであって、以前には彼らは隣人とほとんどたえまのない戦闘状態にあり、領主にたいしては奴隷的従属状態にあったのである。このことは、ほとんど注目されてこなかったけれども、商業と製造業がもたらしたすべての効果のなかでも、もっとも重要なものであった。ヒューム氏は、私の知るかぎり、これまでその点に注目した唯一の著作家である」(II: 235)。

 ふむふむ。このことは、日本史にも当てはまりそうな気がするね。

「近代の戦争では、火器に要する大きな経費が、その経費をもっともよくまかなえる国民を、したがって豊かで文明化した国民を、貧しくて野蛮な国民にたいして、明らかに有利にする。古代においては、豊かで文明化した国民は、貧しくて野蛮な国民にたいしてみずからを防衛するのは、困難だということを知った。近代では、貧しくて野蛮な国民は、豊かで文明化した国民にたいしてみずからを防衛するのは、困難だということを知る。火器の発明は、一見したところではきわめて有害なもののように見えるけれども、文明の永続にとっても拡大にとっても、確実に有利なものである」(II: 373)。

 反・反文明論であり、ひとひねりひねった啓蒙主義ないしホッブズといったところか。そして、現実に照らして説得力がある。

 スミスはたしかに、利潤追求の動機を人間行動に占めるもっとも強い動因のひとつとして認めており、その点でその後の「経済学的人間観」の祖であるのだろう。しかし、現在にいたる経済学的世界観は、社会や世界秩序自体をたんに最初から「経済学的」なものと措定しているのに対して、スミスにおいては社会や世界秩序が経済学的性質のものであることは前提ではなく、経済学的(≒資本主義的)性質のものへと変動していく過程(文明化の過程)を記述しているように思われる。いまとりあえず書いてみたこの言い方がどこまで正確な表現になっているか自信がないが、スミスの議論には経済学的スキームをこえた射程があるように感じるのだな。

[J0312/221118]