ちくま学芸文庫、2011年。

1 流言蜚語
 第一部 流言蜚語と報道
 第二部 流言蜚語と輿論
2 大震災は私を変えた
 日本人の自然観――関東大震災
 明日に迫ったこの国難――読者に訴える
 大震災は私を変えた
 地震のあとさき

清水の論文を新たに編集した文庫。前半と後半で、まったくちがったモチーフを扱っている。

前半の主題は流言飛語で、流言の社会的・心理学的側面について縦横に考察がなされているにとどまらず、人間の本性にまで及ぶ本格的な論考で、示唆に富む。「流言蜚語をして生命あらしめているのは、知識であるよりもむしろ信仰であり意欲である」(124)。清水は、ソレルに倣ってか、啓蒙的理想に距離を取って、人間生活における「信仰」(それは一種の喩えではあるが)の役割を重視している。

後半は、清水の原体験をなしている関東大震災について。これらはまず、朝鮮人虐殺などの事件も含めた、生々しい当事者の貴重な証言のひとつとなっている。当時中学生だった清水は当時の教師にも喰ってかかったようだが、関東大震災時に起きた天譴論にこだわり、これを批判している。次のような指摘にはなるほどと。

「社会改革論者である生田長江や内田魯庵にしても、腐敗したブルジョア社会への鉄槌というプラスと引き換えに、十五万の大衆の死というマイナスを歓迎し肯定することが出来たのであろう。非選択的な天譴の観念を受け容れることが出来だのであろう。….. 更に考えを進めれば、現実に差別があったために、無差別の無一物、無差別の死が積極的な意味を持つことが出来たのである」(198)。

ここだけをハイライトしては、力の入ったこれら論考を誤解させてしまうかもしれないが、将来起きるべき大地震について、こんな発言も収められている。「知識人や革新勢力が先に立って、終始一貫、侮蔑の言葉を投げ、嘲笑の態度を示して、継子のように扱って来た自衛隊に、大地震の時だけ献身的に活動して貰おうというのは、少し虫がいいように思われます。戦後は、かつての軍隊の口汚く非難するのが常識になっています。しかし、過去の軍隊は、高い誇りを持つ武装集団でした。これに反して、今日の自衛隊は、誇りを奪われた武装集団です。大災害に当って、辱められた武装集団は何者なのでしょうか。これもテストされる点だと思います」(270-271)。

一方で、大震災のときの大杉栄殺害については、「日本の軍隊は私の先生を殺したのです。軍隊とは何であるか。それは、私の先生を殺すものである。それは、私の先生の殺すために存在する」と、驚いてショックを受けてもいる(282)。実体験を重視するだけに、ときにこうした矛盾も抱えていたのだろう。[J0314/221129]