岩波現代文庫、2002年。原著は1970年。

第1篇 すしの調理学
第2編 すしの生化学
第3篇 すしの食物史
補編 大阪ずし:阿部直吉老人聞き書(抄)

生化学、歴史学、民俗学等々、諸分野を横断し、膨大なアンケートや聞き取り、実地調査などを通じて書かれた「すし」の研究書。内容面での大きな特徴として、著者が関西のひとだということもあって、江戸前のにぎり寿司だけでなく、それよりもはるかに歴史の古い馴れ寿司系の、各地在来のすしをていねいにあつかっていること。おもいきり僕個人の話、ごく最近、燗酒に一番合うのはまさに、吾左衛門ずしのような押しずしだと悟る。酒も米ならすしも酢も米、それもすごいと思いつつ、そういう眼(舌?)からすると、最高の一冊。「すし」は「酸し」だというから、江戸前ずしが中心ということはないのよ。江戸前がすしの代名詞になったのは、冷蔵技術の発展と、戦争時の統制経済のおかげだという。ふつうの寿司もうまいけどね。ふつうの寿司はむしろお茶だ。酒なら押しずしや馴れずし。個人の意見。

歴史のところから。「宋代、ことに南宋は、また、シナにおけるすしの全盛期でもある。この時期は日本では平安朝の中期から鎌倉時代にあたるが、このころの日本のすしは馴れずしばかりで、生成すら漬けられていない。この間、日本からは栄西、道元両禅師をはじめ幾多の名僧智識が入宋、留学をして、料理法を見ても、巻繊(けんちん)や饅頭などいろいろ輸入されたにもかかわらず、すしの漬け方にいたっては一つも伝わっていない。当時の坊さんたちはほんとうに戒律を守り、すしのような魚味の料理は(たとえ精進ずしが少々はあったにしても)顧みなかったからだと考えるより仕方がない」(168)。

なるほど、そういうこともあるか。しかし、元朝のモンゴル人は魚食に興味がなかったりで、その後中国からは、南西山地の蕃族を除いて、すしは消失したという。

補篇の、大阪のすしの歴史を語った阿部直吉老人聞き書きも、すごい密度。全体を通して、本研究の裏側には、膨大な探索作業の積み重ねがあることが感じられる。著者は「その間の研究成果も、こうしてまとめてみると存外タアイのないのに少々ゲッソリする」と言うが、まさに馴れ寿司のように発酵を経た濃厚な一冊。

〈追記〉
いきおいを駆って、同著者の『すしの話』(1978年)も購入、眺める。写真は松任秀樹、駸々堂ユニコンカラー双書。写真豊富で、『すしの本』の副読本に。表紙のフナずしの写真、最高やな。基本は『すしの本』のダイジェストだが、なぜか江戸前の握りずしの全国化に関する説明のところはこちらの方が詳しかったので、ここに転載しておく。

「まず第一に、敗戦直後の統制があります。あの空腹時代、細々と配給になる米に工賃をそえて、すし屋とすしと交換する、という委託加工制がしかれたのですが、そのときの政令に、握りずし五つと巻きずし五切れを一人前の「すし」と定義し、それ以外はみとめない、という立場がとられたのが問題です。自由になる米が手に入るでなし、これしか商売のしようがないときだけに、全国のすし屋が握りずしをつくることになりました。

「地方の実情をまるで無視したこの官僚統制のために、箱ずし中心だった関西などとくに大きな打撃をうけて、戦後の関西ずしの発展は大幅に遅れることになります。ちょうどそのころ子ども時代をすごした人たちは、否応なく握りずしにならされて、従来のすしに親しみを失っていったのですが、それが今日の中年層ですから、結果は目に見えています。こうして準備がととのったところへ、冷凍業と交通機関のめざましい発展ぶりが拍車をかけ、日本中どこへ行っても握りずしにはこと欠きません」(120-121)

[J0315/221202]+補足