松浪信三郎訳、人文書院、1951年。原著は1943年。ここまでが第一巻。

第二部 対自存在
第一章 対自の直接的構造
 I 自己への現前
 II 対自の事実性
 III 対自と、価値の存在
 IV 対自と、諸価値の存在
 V 自我と、自己性の回路
第二章 時間性
 I 時間的な三次元の現象学
 II 時間性の存在論
 III 根原的時間性と心的時間性――反省
第三章 超越
 I 対自と即自とのあいだの典型的な関係としての認識
 II 否定としての規定について
 III 質と量、潜在性、道具性
 IV 世界の時間
 V 認識
 

サルトルの存在論の出発点はコギトに置かれているが、彼によれば、デカルト自身は実体論的誤謬に陥ってしまったという。また、フッサールについては、逆にコギトに閉じこもってしまい、カント的な観念論つまり存在を叡智界的なものと想定する立場を固持して、「現象論者」の立場にとどまることになったと批判される。そのまた逆にとでも言うか、ハイデガーの場合は、コギトの意識次元を経ずに、現存在を論じてしまっているという。サルトルは、存在と認識を別次元には置かず、重ねあわせて理解するが、しかし、いわばそれらは本質的にずれながら重なっており、むしろずれていることで両者が成立しえているとみる。より端的には、両者は「ずれ」そのものだとさえ言えそうだ。それが、対自と即自のずれである。

サルトルにおける無とは、こうしたずれの一表現だと言えよう。「無は、存在による存在の問題化であり、いいかえれば、まさに意識もしくは対自である」(I: 219)。無という「存在の固有の可能性」があることによって、存在が成立する。サルトルは、両者間に因果的関係を認めることは誤りであると強調しており、「無によって存在が成立する」というよりは「無とともに存在が現象する」とでも言いたくなるが、もちろん、現象とは存在の対義語なので、このようにも言えない。ならばと、ハイデガーの「等根源的」という言葉を使いたくもなるが、この言い方に対しては、「あくまで存在があっての無である」であって「等根源的」も言いすぎであると、サルトルは言うだろう。

「人間存在とは、それがその存在において、またその存在にとって、存在のふところにおける無の唯一の根拠であるかぎりにおいての、存在である」(I: 219)。だからなるほど、「存在は無の根拠」という言い方は容認するわけだ。別のところからもうひとつ、「人間存在はまずはじめに存在していてあとであれまたこれを欠くような何ものかではない。人間存在は、まず、欠如として、自分が欠いている全体との直接的綜合的な結びつきにおいて、存在する」(242)。あるいは「人間存在は一つの欠如であり、人間存在は、対自としてのかぎりにおいて、それ自身との或る種の一致を欠いている」(255)。

存在に関するサルトルの議論には、対自としての存在と、即自としての存在とがある(対他としての存在の話は、次に第三部以降に出てくるはず)。コギトとしての人間存在はまずもって、対自である。即自としての存在はある種の安定性を備えた存在であり、認識対象となっている世界の存在とは、第一には即自存在である。コギトも即自存在として己の存在を置こうとするが、むしろ即自存在ではありえないところに対自存在としてのコギトの存在はあり、己れを安定的な即自存在として置こうとする試みは、つまるところ不可能な企てである。ただし、サルトルの議論にはさらにもう一山あって、さらに存在の機微をみつめるならば、安定的に見える即自存在の世界も、実はより不安定にみえる対自存在との関わりにおいてしかありえないという洞察がある。もし、対自なき即自存在があったとすれば、それはなんの区別を欠いた、存在とはいえない曖昧模糊とした領域でしかないでなく、だからそれは語ることができないのである(ちょっとパラフレーズが行きすぎているかもしれないが)。対自が、否定としての無を働かせないかぎり、対自はもちろん、即自も含めた存在の世界は考えられないのである。

ただし今のところ、本書を読んでいて一番に感じる疑問。サルトルにおける無は、ときに否定および欠如と同一視されているが、まさにそれというのは、否とか非、「非存在」にほかならず、厳密には「無」とは呼べないものではないか、ということ。第二部まで読んだ時点でも、なおこの疑問は解消されていない。

「意識の存在は、この存在が対自的に自己を無化するためにそれ自体においてあるかぎりで、あくまで偶然的である。いいかえれば、存在を自己に与えることも、存在を他の存在から受けとることも、意識の権限には属していない」(225)。うーむ、デカルトのコギトに寄せる確信に比べて、このサルトルの指摘の方がずっとリアルに感じる。彼の対自-即自の議論は、われわれがふだん感じているところの、コギトの存在論的不安定さをよく説明できている。

これらの議論は、欲望論へと繫がる。欲望という事実は、人間存在が欠如であるからこそ存在するのであって、欲望なるものをひとつの心的状態としては説明しえないと。

「人間存在は、その存在において苦悩する者である。なぜなら、人間存在は、対自としての自己を失なうことなしには即自に到達することができないので、自分がそれでありながらそれであることができない一つの全体によってたえずつきまとわれているものとして、存在に出現するからである。したがって、人間存在は、もともと不幸な意識であり、この不幸な状態を超出する可能性をもたない」(244)。「苦悩」や「不幸」の原語はなんであろうか。少し強すぎる表現のような気もするので、「人間存在は、その存在機制からして据わりの悪さから逃れられないものである」などと、僕なりに言い換えてもみたい。

続いて時間論。「私が過去にはいることができないのは、過去が存在するからである」(303)。「あった」とは、「ある」の過去形ではなく、「あった」という独自のあり方である。「即自とである過去と異なって、現在は対自である」(306)。そうしてサルトルは、「現在は存在しない」という命題を立てて、これを考察していく。対自としての現在が存在しないという言い方が成り立つのは、「反射」というものが存在しないという意味と同様である。「対自の存在は、「反射」がそれの「反射」であるようないかなる対象もなしに、ただ「反射するもの」を指し示すだけの一つの「反射」と、一つの証人との、一対をなした一つの現われである」(312)。サルトルの即自存在の理解、すなわち自己や「現在」という時間性の存在の理解にとって、この反射のイメージは重要である。

未来はとはいえば、未来は即自的に存在するのでもなければ、対自的に存在するのでもない。未来は「対自の意味」と位置づけられる。サルトルの用法では、意味とは、それ自体で存在するものではないものである。このことと関連して、「対自は自由である。・・・・・・自由であるとは、自由であるべく呪われていることである」と言われる(325)。

「時間性は存在するのではない。ただ或る種の存在構造をもつ或る存在だけが、自分の存在の統一において時間的であることができる」(341)。「対自の内部構造としてしか、時間性は存在しない」(342)。「時間性が存在するのではなくて、対自が、存在することによって、自己を時間化するのである」(342)。フッサール以下の現象学にもそうした視点がないわけではないが、時間とは人間存在のあり方に発するというサルトルの洞察は、物理学の世界には時間の前後はないという洞察と一致する。

だから、人間存在を離れ、それに先行して客観的な過去なるものがあるわけではないし、逆に過去のない状態から対自としての人間存在が現れるわけではない。「対自は、対自としてのかぎりにおいて、自己の過去であるべきであるから、或る過去をもって世界にやってくる」(347)。「過去を持たない意識はありえない……」(347)。たしかにこうした洞察は、「タブラ・ラサ」状態にあるような過去の記憶などないという体験的事実とも一致する。

このように対自存在がつねに過去につきまとわれていることは、人間存在がその存在において「取りかえしのつかないもの」につきまとわれているということでもある。「過去は、対自のまなざしの対象ではない」のであり、「対自につきまとっている」ものである(351)。

「現在、過去、未来という三つの次元のなかに同時に自分の存在を分散させることによって、対自は、自己を無化するというただそれだけの事実からして、時間的である」(354)。「対自は、時間性というディアスポラ的な形で、自分の存在であるべき存在である」(355)。

「即自の鳥もち」は、即自のようには存在しない対自を、不断に過去へと引きずりこもうとする。「かかる即自の最後の勝利とは、すなわち死である。なぜなら、死は、全体系の過去化による時間性の根本的停止であり、あるいは、言うならば、即自による人間的全体の奪回であるからである」(364)。ふむ、少なくとも、対自としての人間の死は、こうしたものだろう。しかし、人間他者の死や、他者としての死はどうであろう。次の巻を待て(?)。

第二部第三章「超越」は、認識の問題を扱う。「事物とは、あらゆる比較、あらゆる構成にさきだって、意識であらぬものとして、意識に現前しているところのものである。認識の根拠としての、現前という根原的な関係は、否定的である」(421)。ここでもまた、否定の関わりが根本にあるとされる。すなわち、事物の存立は否定の契機から来ているが、その否定はもちろん、即自としての事物から発するのではなく、対自によって「世界にやってくる」(421)。

ただしここで、即自としての事物の存在を、たんに意識としての対自に還元することはないのが、サルトル流だ。あくまで「即自の外には、何ものも存在しない」のであり、「対自は、そこに即自が浮かび出てくる空虚より以外の何ものでもない」(427)。別言すれば、対自とは、反射として存在するにすぎない。「その充実において具体的な極をなしているのは、即自それ自身」なのだと言う(427)。「私を規定するものは、私が私の経験的な充実と呼ぶところのもののただなかにおける一つの穴のごときものである」。「私」は「無であり、不在であって、この不在は、即自の充実から出発して存在へと自己を規定する」(428)。

「実在論、自然主義、唯物論の意味は、過去においてある。すなわち、これら三つの哲学は、過去をあたかも現在であるかのように記述するのである」(482)。

認識とは対自の存在であり、対自の存在は認識である(パラフレーズ)。「認識は、対自に対する存在の現前より以外の何ものでもないし、対自は、かかる現前を実現するところの「何ものでもないもの」でしかない。それゆえ、認識は、本性上、脱自的な存在であり、したがって、認識は、対自の脱自的な存在と一つに融けあっている。対自は、まず存在して、しかるのちに認識するのではない。・・・・・・ むしろ、認識とは、存在のただなかに、また存在のかなたに、対自が、自分のあらぬところの存在から出発して、この存在の否定および自己の無化として、絶対的に出現することである。認識とは、この絶対的原初的な出来事である。要するに、観念論的な立場を根本的に転倒させることによって、認識はふたたび存在に吸収される。認識は、存在の一つの属性でもないし、存在の一つの機能でもないし、存在の一つの偶有性でもない。むしろ反対に、そもそも存在しか存しないのである」(511-512)。

以上、第一巻。

[J0344/230321]