平凡社新書、2018年。2007年の本に、石牟礼さんの詩一篇と伊藤さんの解説を増補として付したもの。

まえがき 石牟礼道子
第一章 飢えと空襲の中で見たもの
第二章 印象に残っている死とは
第三章 それぞれの「願い」
第四章 いつかは浄土へ参るべき
あとがき  伊藤比呂美
増補 詩的代理母のような人ほか一編

若い老女と、その親世代の老女とで、死をめぐる情緒を語る。伊藤さんがぐいぐいと、石牟礼さんの過去や心情に迫っていく。あとがきや増補を読んで、それは石牟礼さんに抱いている親近者のような気持ちからということが分かる。

あれこれの、戦争前後の、ちょっと前の過去の歴史をうかがうという読み方もできるし、なんだろう、死の情緒の共有とでもいうべきものがあって、日本的宗教とくには日本的仏教がずっとそういったものだったのだろうなと思う。寂しさの話や、「お名残惜しゅうございます」といった挨拶のエピソードに見られるような。

ふたりとも、妙にというか、『梁塵秘抄』に強く共感を感じている。キリスト教世界の罪概念と近いようでまたまったくちがった罪業意識というか、そういったもの。個人の意志や責任に帰される罪ではなくて、生きるためにはやむをえない罪業。それに対して、哀れみや遠巻きの共感、さらには「相哀れみ」のような感情がそこには漂っている。

巡礼、乞食がよく訪ねてきた頃の話。そうした人を大事にしたそうで。
石牟礼「女の乞食さんって、本当に可哀そうで・・・・・・。今も記憶にありますけど、目つきが鋭くて。」
石牟礼「お米を差し上げるときは、なんとなく母の目つきが悲しそうだった。決して豊かではないのに、食べるのが減るから。」

もうひとつ、本筋(?)には関係ないけど妙に印象に残ったのは、あとがきにあった、伊藤さんが石牟礼さんにこの対談を持ちかけたときの話。

「最初に思いついたのは昨年の夏だった。電話で話したら、石牟礼さんは暑さに息もたえだえで、「この、呪われた、熊本の夏!」とののしっておられた。」

そういうものよ。そういうもの。

[J0341/230309]