副題「我らいかなる縁ありて」、春秋社、2022年。

1 摩多羅神と夢の女人―壇上遊戯としての恋)
2 毛越寺の二十日夜祭
3 毛越寺の摩多羅神と芸能―「唐拍子」をめぐって
4 摩多羅神紀行―服部幸雄『宿神論』の向こうへ
5 出雲の摩多羅神紀行(前篇)―遙かなる中世へ
6 出雲の摩多羅神紀行(後篇)―黒いスサノオ
補章 出雲の摩多羅神新考
7 我らいかなる縁ありて今この神に仕ふらん―常行堂と結社の神
8 大いなる部屋―修正会から三河大神楽へ

2010年、島根県安来市の古刹清水寺で、中世の摩多羅神像がみつかったことが、筆者による摩多羅神をめぐる旅のターニングポイントとなっている。長らく正体不明だったこの像は、雪害でお堂が潰れた際には、一体だけ厨子から飛び出して無傷だったとのことで、「中世の奇瑞譚さながらで、まさに「出現」というにふさわしい」(246)と。調査で判明した胎内銘が重要で、「嘉暦二二己巳(*1329年)七月廿二 雲州清水寺常行(*堂) 摩多羅大明神 仏師南都方法橋 覚清生年六十一歳」となっている。

出雲にはもうひとつ重要な摩多羅神信仰の跡として、鰐淵寺常行堂がある。常行堂と摩多羅神の組み合わせは、叡山から念仏行に伴って各地の有力寺院に伝えられたもので、叡山常行堂のほか、日光山常行堂、毛越寺常行堂があり、いずれも深く秘された秘法相伝、結社の神として祭祀されてきたという。

鰐淵寺の摩多羅神がスサノオとみなす説が『懐橘談』などにあり、そこに筆者は「異神」としてのスサノオを認める。ここで注目される土地は韓竈神社のある唐川で、唐川にはスサノオの「脛の骨」を埋めた墓があるという伝承があるのだという。典拠のリンクを貼っておきましょう。
>『島根県口碑伝説集』https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1465126/1/1 
また『雲陽誌』には、鰐淵寺の山上にもスサノオの葬地があったと記されているらしい。

「摩多羅神が接近遭遇し、一部で合体を果たしたのは黒いスサノオの方であった。いくつかの所伝と土地に痕跡を残す黒いスサノオに、摩多羅神の影がうっすらと重なっている。一方、杵築するスサノオには、摩多羅神は関心を示さなかったし、近寄りもしなかった。それも当然のことだろう。国土造成の行為をする神に、異神たる摩多羅神がすりよるはずがない」(160)。

こうした神話学的ないし山本学的な解釈のほかには、歴史学の立場からは、次のような近世初期出雲大社における「神仏隔離」原則の推進に関する指摘がある。「中世の否定による大社祭神のスサノオからオオクニヌシへの転換、及びその杵築大社との関係の断絶にともなって、鰐淵寺では蔵王権現をスサノオと主張することができなくなり、しかし浮浪山の山号のためにはスサノオとの関係が不可欠で、そのことから摩多羅神をスサノオと読み替え、それを近世鰐淵寺の新たな守り神にしたということなのだろう。杵築大社と同じ大社造りの摩多羅神社の創建が、杵築大社からの断絶を宣告された寛文七年(1667)だというのも、決して偶然のこととはいえない」(井上寛司「出雲大社と鰐淵寺」『もう一つの出雲神話』特別展図録、出雲弥生の森博物館、2013年、36頁)。つまり、「杵築大社が否定したはずの中世という時代の様相を、形を変えながらも今日まで伝えている」の鰐淵寺なのだという。

出雲というと、古代がピックアップされがちであるが、中世もまた濃い。

[J0352/230404]