新典社選書、2021年。

1 内侍所御神楽を守った三人の公卿
2 応仁の乱と内侍所遷座
3 中世の内侍所御神楽
4 没落する公家、活躍する公家
5 内侍所臨時・恒例御神楽の再興
6 乱世を乗り越えゆく内侍所御神楽

呉座さんの本を読めばいいのかもしれないけど、僕にとって一番わかりにくい時代、南北朝から応仁の乱の頃。内侍所御神楽という主題を取り上げて、その混乱の京都の様子を活写する。

一条天皇の代、すなわち11世紀の冒頭にはじめられたという内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)。南北朝時代、南朝の内侍所御神楽は記録上途絶え、北朝は三種の神器の神鏡を欠いたままに、御神楽を続行。ただし困窮した北朝は朝儀の費用を室町幕府に頼るようになっていたが、応仁の乱前後に幕府自体が弱体化すると、いよいよ自前で経済的なやりくりをする必要に直面することに。応仁の乱の頃、御構(おんかまえ)と呼ばれた室町殿周辺の要塞区画のなかに籠もって暮らしていた東軍側の天皇や公家の生活は、相当にタフだった模様。

洞院家、平松家といった、家業として音曲や郢曲(神楽歌、催馬楽、朗詠、今様など)を伝えてきた公家も次々に断絶。その中心であった綾小路家も、16世紀初頭に資能(すけよし)の代でやはり断絶(のちに江戸時代になって名前としては再興する)。ところが、これに代わって御神楽を担ったのが、もともと箏の家である四辻家の季春。「これまでの家柄や家業のみにこだわる時代は終わろうとしていました」(105)。

応仁の乱によりすべての朝儀が停止された中で、真っ先に内侍所御神楽が再興されたのは、それが『禁秘抄』を典拠として、神鏡や伊勢の神に関わる神事とされていたからだという(135)。

資能の代で断絶する前、その祖父と父である綾小路有俊と俊量(としかず)について。「本書を通してみてきた綾小路有俊・俊量父子は、他家の伝授に難色を示した形跡がありません。むしろ積極的に芸を伝授しているほどです。綾小路家が他家に御神楽を伝授した背景には、実は伝授による礼銭も目的でした。慢性的に窮困した綾小路家は、いわば芸の切り売りをして、当座をしのぎ続けたのです。本来は手に入るはずのない名門綾小路家の芸能が、音楽の家の者でなくても金銭を対価に獲得できるようになりました。・・・・・・ それが結果的に、内侍所御神楽や雅楽が戦国時代も継続する基盤となったのです」(171-172)。すなわち、応仁の乱以前から「人的基盤が新時代に移行し始めていた」のだと。

この種の宗教的伝統について、社会的危機というのは両義的な意味を持つとも言える。もちろん、それは伝統の経済的基盤を切り崩すことで、伝統を危機に陥れる。一方で、危機であるからこそ、それが強く求められるという側面もあるだろう。ただし、いずれにしても、その過程の中で「伝統」は大きな変容を被ることになる。本書は、御神楽の「伝統」が経てきたダイナミックな変動を記述している。当時、「凡例といふ文字をば尚後は時といふ文字にかへて御心あるべし」と言ったのは山名宗全であったか。

[J0359/230502]