島根県教育会編『島根県口碑伝説集』(島根県教育会、1937年)を国立国会図書館デジタルコレクションで少しずつ読んでいるが、そのなかから、妙に可愛らしい伝説をひとつ紹介。かな表記等は現代風に改めた。



八束郡森山村下宇部の瀬戸に面しているところに池の尻というところがある。いまは跡だけしか残っていないが、その昔ここの中央に禿げ山をはさんで西と東に非常に大きな池があった。この二つの池を住処としてひとつの大蛇が住んでいた。今ではこの中畝を「せご磨り畝」といっている。それからその禿げ山の少し南に山があって、その一方海岸に面した方は屏風を立てたように峭立している。

大蛇は二本の角をここで一心に槍の穂先のように研ぐのであったという。その痕跡と思わるるものが無数に残っていて土地の人は角研ぎ場といっている。大蛇は時節を待ち天へ昇ろうとしていたがついに天へ昇ることができなかった。

そして村の人に向かって、「私はこれから大山の赤松ヶ池に行きて昇天の研究をいたしますから、これでお別れをいたします。私が生きている間はこの土手に生えている菜種の花が咲きます」と告げるのであった。

その後もう大蛇の姿を見ることができなかった。今でもやはり土手菜種といって毎年愛らしい花が咲く。

八束郡森山村下宇部とは、現在は、松江市美保関町森山にあたる場所である。境水道(中海と日本海をつなぐ川)に面していて、遠くに大山を仰ぎみることのできる土地。伝説中の「海」とは、おそらくこの水道のこと。

昇天を果たせず、別れぎわに「私が生きている間はこの土手に生えている菜種の花が咲きます」と住民に告げていく大蛇とは、なんともかわいらしくないですか。類話がほかにあるのかもしれないが、どうしても出雲びいきである僕としては、出雲ならではのお話だと思ってしまう。

森山から大山までは40キロほどの、さほど遠からぬ道のり。赤松の池は、ほかにも大蛇伝説のある場所である。出雲周辺の大蛇信仰といえば、出雲大社のご神体をはじめ、土地土地の神社で祀られている荒神様も大蛇だし、関連の話題は多い。他方、菜の花については僕は他に由来をしらず、唐突に菜の花を引き合いにに出す大蛇に、ただただほっこりとする。

[J0364/230511]