副題「謝るとは何をすることなのか」、柏書房、2023年。

プロローグ
第1章 謝罪の分析の足場をつくる
 第1節 〈軽い謝罪〉と〈重い謝罪〉――J. L. オースティンの議論をめぐって
 第2節 マナーから〈軽い謝罪〉、そして〈重い謝罪〉へ――和辻哲郎の議論をめぐって
 第3節 謝罪にまつわる言葉の文化間比較
第2章 〈重い謝罪〉の典型的な役割を分析する
 第1節 責任、償い、人間関係の修復――「花瓶事例」をめぐって
 第2節 被害者の精神的な損害の修復――「強盗事例」をめぐって①
 第3節 社会の修復、加害者の修復――「強盗事例」をめぐって②
第3章 謝罪の諸側面に分け入る
 第1節 謝罪を定義する試みとその限界
 第2節 謝罪の「非本質的」かつ重要な諸特徴
 第3節 誠実さの要請と、謝罪をめぐる懐疑論
第4章 謝罪の全体像に到達する
 第1節 非典型的な謝罪は何を意味しうるのか
 第2節 謝罪とは誰が誰に対して行うことなのか
 第3節 マニュアル化の何が問題なのか――「Sorry Works! 運動」をめぐって
エピローグ

著者は哲学の人だが、とくに社会学者は必読・必携でしょう。一般の人も興味が湧くはず本だが、てっとりばやく「謝り方」のポイント9条を知りたい人は、エピローグだけ読んでも意味がある。それでももちろん、哲学者らしく、次のような考えは崩さない。

「現実には、マニュアルには当てはまらない状況や、マニュアルがかえって障害となるような状況が、いくらでも存在する。・・・・・・むしろ最も重要なのは、マニュアルでは対処しきれない現実の難しさに対して、骨折ることを厭わずに向き合ってよく考えることだ」(279-280)

実際、本文では謝罪の「定義」について、諸学問分野での議論を検証しながら、一義的な定義は不可能であるとしている。とくに、〈軽い謝罪〉と〈重い謝罪〉とではかなり性格が異なること、かつ〈軽い謝罪〉と〈重い謝罪〉との差異は連続的なグラデーションであって、〈軽い謝罪〉と「呼びかけ」や「感謝」などの謝罪以外の行為とも連続していることを指摘している点は、本書のポイントのひとつである。

読んでいてなるほどと思った点のひとつは、「謝罪という行為は、それをする側とされる側のコミュニケーションの起点として機能する」(187)という視点だ。

「謝罪は相手に対して応答を求める行為であり、謝罪を受けた時点で相手は、(無視も含めて)何らかの反応を示す立場に置かれている。コミュニケーションはその場かぎりで終わるかもしれないし、長く続くものになるかもしれない。それから、コミュニケーションは常に友好的なものや建設的なものであるとは限らない。一方がさらなる屈辱や被害を受ける可能性もあれば、交流を通じて両者が精神的にさらに深く傷つく可能性もあるだろう。ただ、その一方で、両者の傷が癒される可能性も、人間関係やコミュニティなどが修復される可能性も、謝罪を起点にしたコミュニケーションによってしばしば開かれるのである」(188)

第4章第3節の「Sorry Works! 運動」の話題も興味深かった。それは、2000年代初め頃からアメリカで興ってきた運動であるという。これまで、病院内では医師が責任回避を考えるあまり、I’m sorry を言おうとしないことが、患者との関係を悪化させてきた状況があるとして、I’m sorry という表現の意味を「過失の表明」ではなく、「患者やその家族への共感(empathy)の表現」という意味に限定して、I’m sorryという表現を賠償責任を認める証拠とはしないという法整備を行おうとするのが、この「Sorry Works! 運動」とのことである。この運動は、日本では「共感表明謝罪」と「責任承認謝罪」という区別の設定として議論されてきているらしい。

筆者は、これらの議論に批判的で、第一には、共感の表現と過失(責任)の表現とを切り離すことができず、前者は後者によって支えられている面があると指摘する。また、日本語の「共感表明謝罪」という訳語は、共感と謝罪を切り離そうとするこの運動の意図に沿ってはおらず、そもそも両者の区分に無理があることがそこに関係している。より根本的には、謝罪をマニュアル化し図式化しようとすること自体、問題解決には繋がらないものと主張されている。

このほか、個人レベルでの謝罪のことに加えて、戦争責任のような「集合的責任」に関わる謝罪の問題も論じられており、本書の議論の射程は広い。あるいはまた僕的に気になっている別の問題、日本社会には、なぜこうもスカスカな形だけの謝罪が蔓延しているのだろうか。本書はこの問題までは扱ってはいないが、これを考えるための手がかりも数多く与えてくれそうだ。

[J0419/231029]