加藤隆訳、ちくま学芸文庫、2021年、原著1998年。

1 キリスト紀元初めの頃のユダヤ教
2 洗礼者ヨハネとナザレのイエス
3 エルサレムの初期教会  
4「ヘレニスト」の再活性化  
5 パウロの最初の活動  
6 前方への逃避  
7 教会のリーダーとしてのパウロ  
8 神学者および殉教者としてのパウロ  
9 六〇年代の重大危機  
10 キリスト教の反撃  
11 パウロの後継者たちの目覚め  
12 大人として成熟したキリスト教に向けて  
13 強化とヘレニズム化  
結論

イエスの死後、もともユダヤ教の一部であった「イエス派」が、パウロらの活動を経て、ユダヤ教から分離独立する過程をたどる。時代としては、キリスト教史の最初の1世紀である。「イエスの早過ぎた死、復活者の度重なる顕現、弟子たちのエルサレムへの定着、ヘレニストによって生じた動揺、教会主流とのパウロの断絶、60年代の凄まじい嵐、ヨハナン・ベン・ザッカイとその弟子たちによるユダヤ教の再興、90-100年頃のシナゴーグからの「ミニム」の追放、2世紀初めのギリシア・ローマ社会への同化についての大議論の開始」(273)。

ナザレのイエスだけでなく、パウロもまた不遇のままに死を迎えたのであり、その活動や思想が「再発見」されたのは死後のことであった。

パウロは、回心(信仰)こそ民族的帰属に優越することを強く主張したのであり、したがってユダヤ教の慣習やシナゴーグからキリスト教信仰を切り離す契機をもたらした。しかし彼は、挫折のうちに死することになった。「パウロの人生の最後の5、6年は試練の時期であった。そしてこの試練の時期は、活動的な伝道者であり、そして教会のリーダーとして自分の群れへの愛着がたいへん強い人物であったパウロが、エルサレムでも、ガイサリアでも、ローマでも、ほとんど完璧に何もできない状態に追い込まれてしまっていただけに、彼にとってたいへん厳しいものであった」(183)。「アウトサイダーとなってしまったこの自分の殉教は、ローマのキリスト教徒たちにはほとんど反響を生じさせなかった。文学においても、またキリスト教芸術においても、ローマ人たちにとってパウロがペトロの対となる存在であるとされるようになるのは、4世紀になってからのことである」(184)。

パウロの思想とは異なるキリスト教諸グループは、ずっとシナゴーグの庇護の下にあったが、ユダヤ教が破滅的な危機(それはキリスト教の危機でもあった)を迎える中で、独立の道をたどることになる。「紀元100年前後になるとキリスト教徒たちは、シナゴーグに対して論争することを止め、また自分たちこそが真のユダヤ人であると示そうとすることを放棄する。彼らは、自分たちが広い世界の中に放り出されているということを悟っている。自分たちの根源がユダヤ教の聖書およびイエスの短い地上での任務活動に存していることを受け入れた上で、この新しい状況について考えようと努力している。彼らのキリスト論および教会論の最終的な形は整えられた」(256)。

本文とは直接関係ないが、文庫版あとがきの、神学や新約聖書学の世界における西洋中心主義を示す著者の体験談がおもしろい。とくに、あのモルトマンのエピソード。「私は、トロクメ先生が指導した学生だった者で、日本人だと紹介された。すると、モルトマン先生は、自分が知っているコリアンの人の話を始めて、そしてその話をずっと続けるのである。・・・・・・私と話をするのを避けるため、日本の話を避けるために、アジアについて自分が知っている少ない知識にずっとしがみついていたという感じだった。・・・・・・モルトマン先生は、高名な学者である。優秀な人である。しかし、世界の諸文明のことが分かっていないことが、自分でも分かっている。それを見破られたくない」(314-315)。なるほど。

[J0425/231117]