西村徹訳、新教出版社、1976年、C. S. ルイス宗教著作集6。原著 A Grief Observed は1961年出版。解説によれば、ルイス59歳の時に結婚した最愛の人ヘレン・ジョイ・デイヴィドマンを、3年の結婚生活ののちに亡くしたときの書き綴りを本にしたものだが、変名(筆名)を使って名を伏せて出版したものだという。

I 神はいずくに
II 「希望のないもののように」
III 紙牌の家
IV エルサレムのつるぎ

真に価値のある書。本の外見からはなかなか識別できないが、死別悲嘆の場面において、性急な慰めに人や自らを誘導する千万の書とは一線を画す。安易な慰めを厳しく拒絶し、悲痛のなかで率直にもらす言葉にだからこそ、逆になにがしかの救いを感じる読者もいるはずだ。

「感傷の涙。わたしにはむしろ苦悶の瞬間のほうがよい。それは少なくとも清潔で誠実だ。だが、自己憐憫に浸り、おぼれ、またそれにふける。いやらしく、ねばねばした、甘いたのしみ――それはわたしをうんざりさせる」(7)

「ともかくわたしは霊媒には近づかぬようにせねばならない。わたしはそれをHに約束した。彼女は、そのような団体のことをいくらか知っていたからだ」(13)

「死者にせよ、他のだれを相手にせよ、約束を守るのはしごくけっこうだ。だが、わたしには「死者の願望の尊重」など罠だとわかりはじめている。昨日わたしはつまらぬ事で、「Hだったら、そんなことはよろこばなかったろう」とあやうくいいそうになってやめた」(13-14)

「ずっと昔、ある夏の朝、たくましい、元気の良い労働者が鍬と如露を持って、わたしたちの教会の墓地にはいってきて、うしろ手に門を閉めながら、二人の友達にむかって肩越しに「また後でな、ちょっくらオフクロのところに寄ってくから」と叫んだとき、いいかげんうんざりしたことを覚えている。彼は雑草をとり水をやって、全体に母親の墓をきれいにするんだということを、言っているのだった。わたしがうんざりしたのは、こういう感じ方、墓地臭い言い草すべてが、わたしにはまったくいやらしい、あられもないことであったし、あるからだ。しかし近ごろわたしの考えるところでは、その男に同調できる(わたしにはできないが)人がいたとしても、それはそれで、けっこう弁護の余地がありはせぬかという気になり始めている。半坪の花壇がオフクロになってしまったのだ。それが彼には母の象徴であり、彼と母を結ぶ環であった。墓の手入れは母を訪ねることであった。これはある点、わが胸のうちに、思い出の心象をまもり、はぐくみつづけるよりは、まさっていはしないだろうか。墓と心象はひとしく、今に返すすべもないものとの結びめであり、想像の及ばぬものの象徴である。しかし、心象には、それがこちらの思いのままを叶えてくれるという余分の難点がある。それはこちらの気分次第で、ほほえみもすれば眉をひそめもする。やさしかったりはしゃいだり、野卑にもなれば理屈っぽくもなるのだ。それはこっちで糸をあやつれる人形なのだ。無論まだそうはなっていない。真実(リアリティー)はまだあまりにも新鮮だ。まじり気のない、まったく不意に浮かんでくる想い出はまだ、ありがたいことには、いつなんどきでもなだれこんできて、わたしの両手から糸を剥ぎとるのだ。しかし心象はますます、どうしようもなく従順になり、がっかりするほどわたしに従属してゆくほかはないのだ。ところが花壇のほうは、頑強で、手ごたえがあり、ちょうど生前オフクロがきっとそうであったように、しばしば手におえぬ真実(リアリティー)のかけらでもあるのだ。Hもそうであった」(30-32)

「ふり返ってみると、ほんのちょっと前まで、Hについてのわたしの記憶のことに、それがどこまで真実を偽わるものになるかに、わたしは腐心していたのだった。どうしたわけか――そのわけは慈悲深い神の御心としかわたしには考えられぬが――わたしはそのことを思い煩うことがなくなったのだ。そしておどろくべきことには、わたしがそれを思い煩わなくなってからというもの、いたるところで彼女はわたしに出あうように思われる。「出あう」とはあまりに強すぎる言葉だ。幻や声とは毛筋ほども似たもののことをいうつもりではない。特定の瞬間の、強烈に感情的な体験のことですらない。それよりは、まったく従来どおり、彼女はおそろかにはできぬ事実だという、一種ひかえめではあるが、ずっしりとした感じなのだ」(72-73)

「神に会うよろこび。死者との再会。こういうものは、わたしの思考の中では模造貨幣の形でしか現われない。いくらでも金額の書き込める小切手なのだ」(98)

「ごくおしまいに近くなってから、一度わたしは言った。「もしおまえにできるなら――もしゆるされるなら――わたしも死の床にあるときに、わたしのところにきておくれ」。「ゆるされるですって!」。彼女は言った。「わたしの行った先が天国だというしても、ひとすじなわでは、わたしをひきとめるわけにはゆかぬでしょうし、地獄なら粉々に打ち破って出てきてあげるわ」。彼女は、自分が喜劇的な含みさえある、一種の神話的な言語を語っていると承知していた。彼女の眼には、涙とともに燦めきがあった。しかし、彼女を貫いて閃く、そしていかなる感情よりも深い意志には、いかなる神話も、いかなるおどけたところもなかったのだ」(105-106)

[J0441/231228]