立川武蔵『死後の世界:東アジア宗教の回廊をゆく』(ぷねうま舎、2017年)から、著者による尊厳論を抜き書き。この書のもととなった連続講義は、おそらくは尊厳死問題を念頭に、あるキリスト教グループから「仏教における尊厳について話せ」という依頼があってのことだそう。

「尊厳を有するというのは、尊厳があるかどうかが問題になっている人以外に、その人に尊厳があるかどうかを評価する人、あるいはその人に尊厳があるかどうかを見ている人、いわゆる他人がいなければ成り立ちません。仏教が尊厳ということを扱ってこなかったのは、むしろ仏教の弱点だと思うのですが、仏教は元来、ひとりの世界を扱ってきました。ひとりの修行者なり実践者がどのようにして悟りに至るか、ということを扱っているのが仏教なのです」(15)。

「「尊厳」に関連して「尊厳死」という言葉がありますが、私はそのネーミングに何か引っかかるものを今まで持ってきました。なぜかというと、ある人が尊厳を持って死ぬという場合、その人の尊厳は他の人が決めていると考えられます。つまり「尊厳」が問題になる場合、自分が「私には尊厳がある」といってもしょうがない、と私には思えるのです。他者が「その人に尊厳があるか否か」を認めるかどうかの話になってしまうような気がしてならないのです。これが社会的なバランスの問題になることは、それはそれとして理解できるのですが。
「もしも「尊厳死」とは、尊厳を持って死ぬということで、「あの人は立派な人だった」とか「品位のある人だった」という形で死にたいということになるとすれば、それはまた別の問題が出てくるのではないでしょうか。みっともない死に方をしたくないといったも、亡くなるときには、体力も考える気力も何もなく死んでいくのですから、尊厳ということをとやかくいってもしょうがないのではないかとさえ思います。
「もしも「尊厳」という言葉を使うべきであるならば、社会が、あるいは他人がとやかくいうことはやめて、一つの生命に与えられた「働き」の時間が終わったときに「尊厳」という言葉を「呼び出す」とともに、それと並行してその人にふさわしい言葉を見つける努力をすべきでしょう」(21-22)。

 やーやー、文章の前後をみると、ご本人は留保をつけながら述べているが、ストレートで的を射た「尊厳死」批判のように、僕には思える。個人の人格や自己決定にこだわる西洋キリスト教的な根を持つ人が、ある種の尊厳死を自分で選びとるのであればそれはそれで、という気もするが、それはやっぱり一面、執着ではある。
 一方、「今この瞬間を生きる」という言い方が安易に使われることに対しても、僕はわりと批判的なのだが、著者のように「少なくともみっともない死に方をする覚悟はあります」(237)という構えの上で、「常に死に向かって時の中を「老いながら」走って」いくのであれば(244)、尊厳という価値づけを事後的で二次的な問題としながら、「今この瞬間を生きる」という言い方をすることは成り立つだろう。
 そのときの「今この瞬間を生きる」とは、死を遠ざけんがための言葉ではなくて、「今この瞬間に死を迎えている」という言い方と重なりあう種類のものである。

[J0442/231228]