副題「ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡」。ダムに沈んだ山間の寒村に通いつめた著者が、そこに住んだ老夫婦の人生を辿る。彩流社、2020年。

第1部 日本一のダムができるまで
廣瀬ゆきえさんとの出会い/徳山村、最後の住人の最後の日/徳山ダム試験湛水/静かな移転地


第2部 徳山村、百年の軌跡
廣瀬ゆきえ幼年期/はじめての滋賀県。海を見た/はじめての巨大紡績工場へ/結婚―開拓の地、北海道真狩村へ/今井磯雄・敏子夫婦との出会い/長男・陸男/開拓団長・今井茂八に札幌で会えた/国営のミハラ農場へ/橋本から廣瀬へ/徳山村にダムがやってくる/徳山村は命の大地/ゆきえばばが、死んだ

徳山村は、福井県や滋賀県寄りの岐阜県山中にあって、いまグーグルマップをみても、門入集落が沈んだ徳山ダム周辺に人の生活の様子はうかがえない。

第1部では、門入集落に最後まで残った廣瀬司さん、ゆきえさんご夫婦の当地での生活と、立ち退きまでが描かれる。ここで、「最後まで、昔ながらの生活をして村に留まった老夫婦」というストーリーでいったんは話が終わるが、第2部では、このご夫婦の人生やこの集落の背後にある詳細な歴史が明かされて、この方々にとって門入を捨てさせられるということがどんなに重い意味をもっていたかということが分かるという、劇的な構成になっている。

「村人」の一般的イメージとは裏腹に、廣瀬ゆきえさんは、ずっと門入に留まって暮らしていたどころか、少女時代から岐阜や名古屋に働きに出た後、門入の開拓団が入っていた北海道真狩村に嫁入りしたのち、家を継ぐために夫婦でまた門入に戻るという人生を送ってきたのであった。そのホハレ峠がタイトルになっているように、14歳のとき、蚕の繭を売りに、県境の峠を越えたら琵琶湖が見えたというくだりは印象的だ。

「昔の人は今の人より野心に富んだ人生に見えた。先が見えなくても知らない世界に踏み込んで行く。保証も保険も担保もない。明日を迎えるために今日をどう生きて行こうかというように。」(132)

著者の大西さんは、たんにゆきえさんの足跡を知るというだけでなく、「ゆきえさんがかつて眺めて風景」を尋ねて、真狩にまでも何度も足を運んでいる。真狩を去って札幌で暮らしている親戚の方が、徳山村のニシンの飯寿司をいまも伝えていたという話からも、著者が受けた感動が伝わってくる。昭和30年に廣瀬夫妻が徳山に戻ったとき、真狩にも当たり前に通っていた電気が、徳山には通っていなかったという。

こうした人生のストーリー、集落のストーリーを再体験したあとに、最初は知らずに読んでいた、ゆきえさんの言葉が重く響いてくる。

「ここに家を建てて、やがて20年になる。正直に言うと、もう金がないんじゃ。ダムができた頃は、一時、補償金という大金が入ってきて喜んだこともあった。でも今はそうじゃない。気づいたころには、先祖の積み上げたものをすっかりごとわしらは、一代で食いつぶしてまったという気持ちになってな。徳山村の価値は現金化され、後世に残せんようになったんや。20年経って、実感を持つようになったんじゃ。金を使えば使うほど、村を切り売りしていくような痛い気持ちや。補償金で暮らしが豊かになり、いい車にも乗れて、大きな家を建てて、いいことばかりを、ダムの偉い人らに何年もかけて教えられてきたんじゃ。『おばあちゃん、ここに一つハンコをついてくれたらいいで』。村中がそんな雰囲気に押しつぶされていったんじゃ。体験した者じゃないとわからんが、耐えられんぞ。結局、税金などを長い時間を払っていたら、補償金は国に返したようなもんや。気づけば、わしらの先祖の財産は手元にすっかりことなくなっとるんやからな。そして村までなくなり、バラバラになってまった。みんな一時の喜びはあっても、長い目でみたらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」(70-71)

それにしても著者の大西さんの情熱は驚くべきもので、本書の出版までゆきえさん逝去後、7年もかかっているところにもその誠実さを感じる。なお、この徳山村の在りし日の様子については、ここを故郷に生まれ暮らした増山たづ子さんという方が膨大な写真を残しており、写真集も出版されている。

[J0445/240101]