初出は「SACジャーナル」連載、1964年。『現代誌論大系 第四』(思潮社、1965年)に所収のものを、国立国会図書館デジタルコレクションから読むことができる(要登録)。https://dl.ndl.go.jp/pid/1356353/1/96

  • ベートーヴェンの第五が感動的なのは、運命が扉をたたくあの主題が、素晴らしく吃っているからなのだ。
  • どもりはあともどりではない。前進だ。
  • 東洲斎写楽はどもりである。
  • どもりも鳥も、いつも同じことはくりかえさない。その繰りかえしには僅かのちがいがある。このちがいが重要なのだ。
  • どもることで、言葉はそれ自体の肉体をもち、どもれば、言葉の表現の意味は解体され、人は、確かな裸形の意味を摑むだろう。脆弱な論理にまどわされぬ、〈人間物〉としての言葉は、こうして真に響くのである。
  • 意味が言葉の容量を超える時におこる運動こそ、もはや物理学では律せられない、〈生〉の力学ではないか。ぼくが幾分寓意的に書いてきた吃音の原則は、そこに在る。
  • ぼくらの声は不完全さによって個性的であり、そのことによって肉体となるのである。
  • 吃音者はたえず言葉と意味のくいちがいを確かめようとしている。それを曖昧にやりすごさずに肉体的な行為にたかめている。それは現在を正確に行うものだ。芸術作品は地層のように過去から現在を進行する形のものでなければならない。どもりはあともどりではない。

視点としてのどもり。どもりの形而上学を意識したらなら、どもりの芸術を、あちこちに見出すことができるはずだ。

[J0455/240320]