副題「その精神の源」、中公新書、2018年。広い視野からの比較文化の試みは大事だし、著者のような経済学者が宗教に着目している点でも大きな期待をもって読みはじめたが、これはいけない、がっかり。

第1章 イギリスと日本の近代資本主義
第2章 資本主義の精神の宗教的基礎
第3章 高度成長期としての江戸時代
第4章 西洋との出会い
第5章 異種精神の相克と共存の時代へ

1.「鎌倉新仏教」の位置づけ
 現在の仏教史学や宗教学では、「鎌倉新仏教」の革新性とは、明治以降に誇張されたものであること、いわゆる旧仏教が(著者の強調する廻向の論理以外にも)鎌倉時代以降近世にいたるまでさまざまに重要な役割を果たしてきたことは、ほとんど常識になっているといって良い。この点、多くの研究が積み重ねられてきているが、それらをほとんど顧みていない。

2.近代主義的宗教理解
 著者は宗教を「思想」「道徳」や「経済倫理」としてしか捉えておらず、宗教的共同体や教団の社会的形態の時代的変遷を十分に視野に収めていない。とりわけ、中世まで宗教勢力が武家や公家とある意味で並び立つような権門体制を取っていた点について配慮がない。宗教を「思想」や「道徳」としてのみ捉えるのは、典型的な近代主義的宗教理解である。(また、宗教の社会的形態の軽視と同様に、家族形態や親族組織、村落や都市の形態といった社会構造の歴史的変遷についても、思いついたように言及されるばかりで十分ではない。)

3.通俗道徳論と仏教的要素の誇張
 通俗道徳論について、その主唱者である安丸良夫の議論に触れていないのはどういうことか。これと平行して著者は、通俗道徳をはじめとする道徳律の形成について、儒教に対して仏教の影響力の強さを強調しているが、この点についてはまるで説得力がない。論証自体が不十分である。仏教を強調しているのは、おそらく、中国や韓国を「儒教型」の資本主義として、日本を「仏教型」の資本主義と区別したいからでもあろう。資本主義にもさまざまな種類があり、日本と中国でもタイプがちがうというところまでは首肯したいが、だからといって日本が儒教型に対するところの「仏教型」と特徴づけるのは強引にすぎる。

経済学の方ということだから、宗教史や歴史学の専門家と同じ知識を持たなければならないというわけではないが、取りあげている研究があまりにも恣意的すぎる。ハーンやら吉本隆明やらベネディクトやらまで引用して、要するには、歴史学の研究というよりは、昔の学生さんがよく教養主義的に読んでいた宗教に関する「評論」がベースになっている。逆になぜ、もっとも内容面で近いはずのベラーや内藤莞爾の古典的研究に言及がないのかも理解に苦しむ。それぞれの分野で、最低限知っておかねばならない研究の流れというものがあるのは、経済学でも同じはず。ある分野で偉くなってしまうと、そういう基本的なことを指摘してくれる人がいなくなってしまうのかもしれない。
[J0471/240519]