副題「「14億分の10億」のリアル」。複数地域のフィールドワークから、中国の農村を描く。中国の人びとに親近感が湧くいきいきした記述のうえに、分析を行う。調査の失敗談までが、リアルな現地の報告となっている。中公新書、2024年。

序章 中国農村の軌跡
第1章 市民との格差は問題か?:農民の思考様式
第2章 農村はなぜ崩壊しないのか?:村落生活の仕組み
第3章 なぜ村だけに競争選挙があるのか?:農村をめぐる政治
第4章 中国農村調査はなぜ失敗するのか?:「官場」の論理
第5章 農村は消滅するのか?―都市化政策と農村の変化
終章 中国農村の未来

「中国の農民が、地縁や共同体重視の日本とは違って、血縁重視の家族主義になったのはなぜだろうか?」(37)。ひとつの理由として、「遅くとも1000年前の宋代までには、封建的な身分制度に基づかない人材登用制度が整備され、いわば実力本位の社会が早くに出来上がった。そこでは個人が出発的になるので、身分の入れ物、「竹の節」のようなイエは必要なかった。個人を中心として、状況に応じて家族を拡張したり、縮小したりすればよかった。対照的に150年前まで封建制と身分制が続いていた日本では、家名、家業、家産が一体となった経営体のようなものとして家族が捉えられやすかったのである」(37-38)。

中国農村の家屋新築競争について、馮川氏の分析を紹介して。「彼によると、家屋新築の競争は、人の流動性が低く、それゆえお互いの家々の内情を知り尽くした(知根知底)状態にあるコミュニティでは発生しにくいという。逆に、大量の青年・壮年層の男性、女性が出稼ぎにいき、村のなかに付き合いや情報の交流がある程度、希薄化し、互いの家庭内の事情、とりわけ経済的事情がよくわからなくなったステージで、初めて家屋新築競争が起きるのだという。なぜなら、お互いの家庭の経済事情を知り尽くした状態では、見栄を張って身の丈以上に豪華な家屋を建てる必要はないからである。よその家庭がどの程度、稼いでいるのかがもはやわからなくなった状況下でこそ、必要以上に見栄を張る余地も出てくるという」(68)。うーん、いかにもありそう。

日本の地縁に対して、中国はもともと血縁に重きがある。「統治権力の側からすれば中国農民の「家」というのは伸縮自在で境目がなく、つかみどころがない。これに対して、地縁的な組織は統治の単位として便利である」(95)。人民公社の時代には、「地縁組織の必要度は高まり」、「地縁の血縁にたいする優位が確立された」(95)。「人民公社解体後は、地縁と血縁の関係は独特の隔たりとコントラストを呈するようになった。一部の地域では地縁的な要素は、瞬く間に後方に退いた」(95)。これに対して、「一般的にいって、北方の村落は南方の村落に比べ、社会主義的地縁共同体の要素を現在でも色濃く残している」(96)。

このように、8カ所以上の中国各地域の農村にてフィールドワークをし、比較検証をすることができるのが、著者の大きな強みである。その他にもたとえば、地域によって各家庭に他人が入る「敷居の低さ」が異なるという。同時に、日本と比較した際に、中国の家々の「「敷居」は限りなく低い」という(90)。等々。

第三章の「なぜ村だけに競争選挙があるのか?」は、本書のなかでももっとも含蓄に富む。1990年代から、中国農村に「民主」の波がやってきたが、「官」と「民」の区別こそが重要な中国農村において、民の代表としての「議員」や「政治家」という存在は機能しえないのだという。章炳麟がかつて指摘したように、議会制は封建制や身分制と相性がよいが、それは「身分というものが中間集団として働き、人々の間に、「自分たちの代表を議会に送り込みたい」という意識が働くからである」(161)。しかるに、封建的な身分制や自治村落や、西洋的な意味でのギルドが存在しない中国では、代議制はうまく機能しないのだという。実のところ、農村社会に「民主選挙」が「接ぎ木された」のは、「短いスパンで基層レベルのリーダーの交代を促し、地方ボス化を防止するための、基層幹部制御の政治の一環であった」(172)というのが著者の見立てである。だからこそ、習近平のような国政レベルではまともな選挙が為されていないのに対し、地方にだけ民主選挙が導入されているのだと。日本についてもよく、「本当の意味で民主化されていない」といった言われ方をするが、「民主化されなさ」についても、さまざまなパターンやバリエーションがあって、その内実を探ることこそが大事だと気づかされる。
[J0475/240604]