岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(有斐閣、2018年)。Where does sociology come from? Where is it going to?

対談形式なのでぱっぱとと思ったが、二段組で、読むのにずいぶん時間がかかった。方法論の話が多く、『マンゴーと手榴弾』を読んで浮かんだ疑問、岸さんは社会学をどういう学問と考えているのか、という点にもあちこち答えている。

岸さんは、安易な比較ではなく、むしろひとつのケースの中の多様性を描くべきとする。

北田さんが、社会学の話法として「時代診断」と「合理性を媒介にして理解すること」の二つを挙げている(p.41)。そして、北田さん岸さんとも、前者には他のやり方があるが、後者の側面にこそ「社会学らしさ」があるとする。

北田さん岸さんは、ある種の構築主義を「概念枠の相対主義」と批判するデイヴィッドソンの立場に共感する。「理解というのは「できる/できない」という問題じゃなくて「できちゃう」というところからスタートしなくてはいけない。こういう話だと僕は思っていて、概念枠の神話に乗りかかっているような人が、やはりポジショナリティの話に乗っかっちゃっている」(北田、pp.47-48)。一番最後のくだり、「理解ができているはず、できている以上は、相手に合理性があるし、相手がそこで急き立てられている何かがあって。」(岸、p.361)

岸さんはブルデューを評価する。ブルデューやウィルスについて、「ひとつの場で、複数の社会的ゲームが走ってて、各自は自分が勝とうとするゲームに参加するわけです。同じ場にいたとしても、じつは違うゲームに参加していたりする」(p.113)。「じつはその「どの観点から合理性を見るか」っていうことは「どのゲームに参加しているか」っていうことを見るかっていうことですよね」(p.114)。そうそう、そのとおり。合理性ないしルールの多元性と錯綜というこの観点で押していけば、社会学の規定にも繋がりそうな気がするが、この観点で最後までは論じていないんだよね。これって、いわゆる語りの多元性とは似て非なるもので、そこが肝になるのでは。

経済学者や心理学者は、人間は人間としてはみな同じという前提をおく。そこではじめて介入とその結果を辿る因果効果を析出することができる。社会学はそうではなく、異質なグループどうしを較べようとする傾向が強い。(筒井、pp.190-191)

岸さんははじめ、社会学における他者理解や代表性の問題にも関わって、「相場感」というものの存在やそこへの信頼を強調する。その議論の中で、私たちが日常生活の中でカテゴリーや因果関係を用いており、その延長線上に比較対照実験といったこともあると、筒井さんが指摘(p.260)。「相場感」の話は措いて、個人的にはこの日常的理解との延長戦というラインで、科学を規定していきたい。問題意識、問題設定の水準で人々の生活や実践に戻ってくる必要がある、と述べているところで(p.266)、このへんの議論は自分の考えは筒井さんに近いのか。p.295あたりでも、特定のコミュニティへの介入を前提として、因果推論的な研究をやろうにも、介入をする前に必要な予備知識というものがあって、そのあたりに社会学者の活躍の場があると筒井さんが述べていて、確かになと。

北田さんが、シカゴ学派中心史観に隠されたドゥボイスの重要性について解説をしている。『フィラデルフィアのネグロ』は、『ポーランド農民』よりずっと早いと。

岸さん。ある種の福祉業界の人は、社会問題の存在を自明視して、本人は問題とはおもっていない、意外と楽しくやっているといった側面を見落とすことがあると指摘。一方で岸さんは、社会問題は存在するという立場を強く打ち出しているから、そのはざまに彼の立場はあるということになる。ここでは、「自分と違う人々」として相手を捉えることという表現をしている。

めちゃめちゃ個人的なメモですみません。

[J0026/200409]