講談社現代新書、2012年。

第1章 日本社会はいまどこにいるのか
第2章 社会運動の変遷
第3章 戦後日本の社会運動
第4章 民主主義とは
第5章 近代自由民主主義とその限界
第6章 異なるあり方への思索
第7章 社会を変えるには

予想していた内容とちょっとちがって、「「社会を変える」ために役に立つ、現代日本の基礎教養」」にあたる部分にかなりの紙幅を割いている。まずいくつかのメモ。

「家族でも政治でも労組でも、お金や暴力に頼るようになるのは、人びとが「自由」になってきつつあるのに、新しい関係に移ることを拒否して、旧来の関係をむりやり保とうとするからです。お金や暴力は、関係が希薄になってくるところに、関係の代役として入りこんでくるのです」(119)

「六〇年代の日本はまだ貧しさが残っている時代でした。一方で高度成長で急激に豊かになりつつあったので、社会にはそれに対するとまどいと「うしろめたさ」がありました」(125)。それが七〇年代半ばには変容する。「全共闘運動の背景にあった、豊かさに慣れていない、急減に経済成長して違和感がある、という感性も消えていきました。つまり日本の「六八」年というのは、日本が発展途上国から先進国になる過程の流動期、不安定期におきた動乱でもあったわけです」(157-158)。「一言でいうと、発展途上国型の混沌が整理されて消えていき、急激な経済成長にともなう混乱も消えました。その一方で、先進国型の市民参加が育つほどには自由度がなく、人びとは忙しく企業中心の活動に拘束されていったのです」(158)。

マルクス的な貨幣論から、「いわば近代社会は、関係をどんどんお金に変えて、走っている社会です。自分で野菜を作って食べ、隣近所からおすそ分けをもらう社会は、生産物やサービスが市場で取引されませんから、GDPは低くなります。自分で生産した野菜を食べずに売って、おすそ分けもやめ、みんなが外食するようになれば、GDPは上がります」(225);「それが進むと、お金や商品交換を介した関係以外の人間関係が、だんだん枯渇してきます。しまいには、家族も、恋人も、友達も、お金を介さないと関係が作れない状態になります」(226)。

社会運動の進め方に関して。「全体のトレンドとしては、人びとが「自由」になり、再帰性が増大しているので、個体論的な発想ではうまくいかない、という傾向は共通してみられます」(484-485)。個体論的な発想というのは、所属や組織に人を貼りつけるような発想。「おもしろいことに、弾圧する側は、よく運動の個体論的な考え方を利用します。ある程度広がりを持つ運動が出てくると、「穏健派」と「過激派」に分裂することをしむけます」(486)。

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さて、2012年に出版されたこの本の背景にあるのは、当時東京を中心に生じた脱原発デモの高揚である。脱原発、それから日本社会の方向性転換が必要であることは、まさにそのとおりである。またデモや社会運動一般はもっと盛んになるべきとおもうのだが、しかしこの一連の潮流には次のふたつの点で違和感を感じざるを得なかった。

ひとつは、一連の脱原発デモを支持する動きに、東京中心・都会中心の空気が濃厚であって、地方在住民としては疎外されている感覚が強いことである。地方にも実際にはいろいろあるが、私の場合は県庁所在地で人口が20万人という地方小都市のことを言っている。著者は地方でのデモについて「人口比で言えば同じ、効果がむしろ大きい」と簡単に言うが、大都市と同じような意味における「街」という場所がそもそもないのである。一番人が賑わう場所と言えばショッピングモールで、それももちろん規模は小さい。「楽しいデモ」というが、こちらでは、誰も人のいない寂れた遊園地で小さなコースターに乗るようなもので、祝祭感はまるでない。地方小都市ではむしろ、旧いやり方とされている共同体ベースの運動の方がまだ効果的だろう。地方は地方のやり方を取るべきなのだろうが、テレビやメディアの向こうで「楽しいデモ」が盛り上がり、それが薦められるほどに、疎外感が強くなったのは確かだ。

もうひとつは、10年以上東北地方に在住した人間として、あのタイミングで急に脱原発運動が盛り上がったことについては、複雑な思いを持たざるをえなかった。東日本大震災で被災したのは、福島や原発だけではない。東北地方でいえば、青森・岩手・宮城の被害も甚大であり、その衝撃は天地が引っくりかえるほどのものだった。このような災害体験から原発問題だけを抜き出すことに、無意識的なものであれ東京中心主義が感じられてしょうがないのだ。著者は「おわりに」でこのように書く。「そこへ東日本大震災と、原発事故がおこりました。多くの人がそうだったように、一時はかなりの恐怖と緊張が強いられました。そこへ2011年4月の、東京の高円寺でのデモがあり、参加してみるとそこには大きな開放感と活力がありました」(505)。2011年4月時点で「大きな開放感と活力」! 私自身は被災者ではないが、あまりの感覚のちがいに、今これを書いていてもめまいを感じる(これは比喩ではない)。東日本大震災から東京中心目線で意味を抜き出しているところは、東京オリンピックと同根である。

おそらくどちらの「違和感」も、小熊さんやこれらの運動それ自体が悪いということではない。地方の問題にしても、大震災関連の事柄における東北の位置づけにしても、私が感じた違和感は、日頃から、さんざん構造的な東京中心主義――無意識的な無視や無理解――のもとにさらされて、地方がないがしろにされてきている状況の反映にちがいない。「日本社会の市民のため」と素朴に考えられていることが、その実「東京都民のため・大都市住民のため」であることが多すぎる。別言すれば、全国規模で社会を動かすには、東京をはじめとする大都市圏と地方との間に存在する深いギャップをうまく架橋することがキーになるのではないか。それとも結局は、東京に引っぱられるかたちでしか変革は起こらないのだろうか。

[J0067/200803]