PHP新書、1997年。なんだか以前も一度読んだことがあるような気もするが、まあいいか。日本社会では、対立を前提とした「対話」が徹底的に欠けており、言葉が無力になってしまっている。それは、他者の異質性をないがしろにし、少数派に対する抑圧にも通じているのだ、というのが著者の主張。20年以上前の本で、ディティールでは状況が変わっている面もあるが、たとえば今の首相や政権のようすを思い出すだけでも、「言葉を尊重しない文化」という著者の指摘が当てはまってしまうことは見やすい。そういえば、忖度ブームてのもあったな。

「長年温めてきたテーマ」とのことだが、日常感じるこうした違和感や苛立ちを、きちんと言語化して書籍化していることにまずは敬服。

第1章 沈黙する学生の群れ
第2章 アアセヨ・コウセヨという言葉の氾濫
第3章 〈対話〉とは何か
第4章 〈対話〉の敵―優しさ・思いや
第5章 〈対話〉を圧殺する風土
第6章 〈対話〉のある社会

第5章に、対立を避けて我慢して表面的に「謝る」することに、自尊心に対する理解の欠如という話が出てくる。第1章では、学力格差の条件下で言葉を失う学生たちの話もあった。そのあたりを読みながら想像していたのは、「最近の若者は自己肯定感や自尊感情が低い」という言説のことだ。これらの一般的言説では、あたかも自己肯定感なるものが心理的属性のように語られ、またしばしば、それは外から褒めて育てるような種類のことのように理解されている。しかし、そうではなく、自己肯定感の欠如と呼ばれるような現象は、著者が指摘する〈対話〉の欠如の一帰結なのではないだろうか。つまり、自己を「肯定する」以前に、そもそも他者に対して自己の立場に立つ姿勢の欠如ではないか。

そうだとすれば、いわゆる「自己肯定感の低下」にはふたつの次元の問題がある。ひとつは自己表現の喪失であり、自己からの疎外である。もうひとつは、自己から疎外されているにもかかわらず、なんらかの自己があることになっている、その仮構の自己の構成である。むしろそちらこそ、たとえば「人前で注意されたら嫌だ」というような種類の感覚からなっている――自己感!?――ようにも思う。それが、勉強ができる・できないといった極めて外的な基準からした自己とミックスされている。思いつきは思いつきとしてまとめてみると、現在、自己肯定感の低下と呼ばれている現象は、自己表現を喪失することによって、他者との対話的関係にあるべき自己が「自己感」のような感覚にまで切り詰められている状況を指している。自己肯定「感」という言葉は、心理学的な発想に基づく自己の心理化として、自己の自己感への切り詰めをすでに前提しているのみならず、それを助長してもいる。それは、心理学的な問題ではなく、本書の著者が言うように、言語表現に対する姿勢の問題なのだ。自己肯定とはそもそも「感」ではないし、既存のものとして存する自己を「肯定する」ことでもない。他者に対して自己を表現すること、それが即、自己肯定なのだ。といった感じか。

自分で書きながら、なるほどと思ったぞ?自己肯定とは、既存の自己に肯定的な価値を付与することではなく、自己表現と同一である。こうした意味における自己表現は、何かの「役に立つ」ものでもなければ、外的な基準やそれによる順位づけに依存するものでもない。ということになるか。

こんな具合だと、本書の〈対話〉を、ほぼそのまま〈自己〉に置き換えることも可能かもしれない。「思いやり」が〈対話〉を封じている、は、「思いやり」が〈自己〉を封じている、に。「〈対話〉は対立のないところでは育たない。対立を大切にする社会、互いの差異を性格に測定しようとする社会でなければ死んでしまう」(188)、たとえばこの〈対話〉を〈自己〉に置き換えることもできそうだ。もっとも、著者が言葉がすべてではないと最後に述べているとおり、〈対話〉と等値されるところの〈自己〉が、人間存在のすべてでもない。それは前提として、自己肯定感を取りざたするときの自己は、この種の〈対話〉=〈自己〉だと思う。

本書には「対話の基本原理」なるものを掲げられているので(132-133)、メモ書き。ぱっと見、著者がその項目を掲げるに至った必然性がわからない項目もあるが、またいつかそれに気づくときもあるかもしれない。

(1)あくまでも1対1の関係であること。
(2)人間関係が完全に対等であること。〈対話〉が言葉以外の事柄(例えば脅迫や身分の差など)によって縛られないこと。
(3)「右翼」だからとか「犯罪人」だからとか、相手に一定のレッテルを貼る態度をやめること。相手をただの個人として見ること。
(4)相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること。
(5)自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれを引きずって語り、聞き、判断すること。
(6)いかなる相手の質問も疑問も禁じてはならないこと。
(7)いかなる相手の質問に対しても答えようと努力すること。
(8)相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけてゆこうとすること。
(9)相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
(10)社会通念や常識に納まることを避け、つねに新しい了解へと向かってゆくこと。
(11)自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。
(12)それぞれの〈対話〉は独立であり、以前の〈対話〉でコンナことを言っていたから私とは同じ意見のはずだ、あるいは違う意見のはずだというような先入観を棄てること。

[J0068/200804]