ちくま新書、2019年。

第1章 武器としての死体―中国
第2章 滞留する死体―漢族
第3章 布施される死体―チベット族
第4章 よみがえる死体―ユダヤ教とキリスト教
第5章 浄化される死体―日本

なるほど、おもしろい。「死体はただのモノなのか」という視点からした比較文化的考察。著者の専門である中国の項が白眉で、死体を盾にして抗議や恐喝を行う「図頼(とらい)」の風習を手がかりに、死体をめぐる文化の深層に迫る。

「漢族の儀礼の中心的な主題は、死者ではなく「死体」である」(50)。「漢族の文化における「死体をめぐる儀礼」に特徴的に見られることは、死体を強く恐怖しているという点である。強力な邪気を発している死体は、きわめて危険である。危険な死体は、社会から送り出す必要がある」(57)。

埋葬された死体と子孫の運勢との関係について、「機械論的風水観」と「人格論的風水観」との論争があり、近年は水口拓寿が「機械論 and/or 人格論」論争として整理をしているとのこと(85-86)。

「図頼」的な感性を日本に求めると、鎌倉時代には遺言状に背くことを「死骸敵対」の罪科としている例がある(175)。しかし、鎌倉後期になると「死骸敵対」は「父子敵対」と呼ばれるようになったと。「死骸への恐れによって遺訓を守らせようとしていた状況から、倫理によって人を縛る方向に変わったことが示されている。成仏させられた死体は、もはや現世と関わることはできないのである」(180)。

[J0071/200814]