河出ブックス、2009年。

まず自分自身の話、正直、小説や文学にはどうも夢中になれないタイプ。この本の中にある表現でいえば、文学が提供する「読者が意味に到達する速度」がしっくりと来ないというか。一方、文学研究には覗き見したいという興味があるのですよ。そういう種類の人間にも、これは良書。文学研究および現代思想の流れから、読者論のポイントをこぎみよく紹介して、キレキレ。たとえば、カルチュラル・スタディーズの位置づけのところなど、こんなにコンパクトかつ的確なまとめはみたことがない。

第1章 読者がいない読書
第2章 なぜ読者が問題となったのか
第3章 近代読者の誕生
第4章 リアリズム小説と読者
第5章 読者にできる仕事
第6章 語り手という代理人
第7章 性別のある読者
第8章 近代文学は終わらない

以下、メモ。

「期待の地平」(第4章)。小説の読者には「期待の地平」が共有されている。ハンス・ヤウスのような文学研究者は、期待の地平を裏切る小説こそが芸術的な価値が高いと考えた。しかし「私たちは新しい何かだけを求めて小説を読むわけではなく、いつも通りの安心感を求めて小説を読むことも少なくない」(95)。つまり、期待の地平は芸術の価値を計る基準とはならないが、これが共有されていることは、読者に「内面の共同体」が成立していることを示していると、石原は強調している。

読書行為の一契機、「読書の速度」(第5章)。読書の速度は読書の質を規定する。小説にも「物語」を楽しむテクストと「言葉」を楽しむテクストがあり、書き手の側からすると、それぞれ類型的な表現と、正確で異化作用のある表現を用いなければならない。「書き手は読者の読む速度を調節できなければならないのである。これが書き手にできる仕事だと言える」(124)。しかしまた、「読者にも、書き手にも、自分では「計算」しつくせない何かがあることは認めねばらないようだ」(125)。

全体を通したキーワード、「内面の共同体」。著者は、読者論とカルチュラル・スタディーズとの接続を試みて(と自身が言っている)、この概念を提起する。「「内面の共同体」とは、他人も自分と同じように読んでいるだろうという間主観的な意識で、現実には読者の内面を規定していながら、読者が十分には意識化できないようなパラダイムのことである」(214)。

柄谷行人は、小説が内面を描けなくなったという点で、「近代文学の終わり」を述べた。石原は、柄谷に「半ば肯定、半ば否定」の気持ちを抱きつつも、「柄谷行人は内面を書くことと内面を読むこととの違いを考慮していないのではないか」「内面を書かなくても読者は内面を読み、内面の共同体を形成する。それが現代社会に生きる読書を拘束しているパラダイムではないか」と反論している(189)。

こうしてみると、読者論の問題には、作為/不作為、意識/無意識の問題が深く関わっていることに気づく。内面の共同体の定義に、間主観性という現象学用語が入りこんでくることにも必然性がある。

[J0080/200822]