もともとは1972年に発表。その当時、よく読まれて映画にまでなっている。1975年の文春文庫版で読んだが、2008年の新装版は続編『サンダカンの墓』と合冊とのこと。書名に聞き覚えがあったところ、神崎宣武『聞書き 遊郭成駒屋』に紹介されていたので一読。

底辺女性史へのプロローグ
偶然の邂逅:天草への最初の旅
二度めの旅へのためらい
おサキさんとの生活
おサキさんの話:ある海外売春婦の生涯
声なき声をさらに多く
おフミさんの生涯
シモさんの墓
おクニさんの故郷
ゲノン・サナさんの家
さらば天草
からゆきさんと近代日本:エピローグ

東アジア・東南アジアに渡り、娼婦として働いた「からゆきさん」の実像に迫るべく、たまたま出会った貧しい老女おサキさんと生活をともにしながら、からゆきさんの歴史に迫る。著者は「研究書」として書いたとのこと、たしかに記録としての価値は高いが、一般の研究書の枠組みにはまったく収まらないドキュメンタリー作品。人類学でいうところの住み込み型の参与観察という方法さえも超えている。

からゆきさんとして生きた人の話を辿って、貧しさゆえに過酷な娼婦家業に身を落とさざるをえなかったという悲惨さは、たしかに悲惨でしかない。しかし、たとえばタコ部屋の土工の話なんかでもそうなのだが、悲惨な生活の中にも印象的なあれこれの機微はあるのだ。悲惨は悲惨であったとしても、ステレオタイプな悲惨のイメージを押しつけて済ませるのは、ほとんどつねに浅薄である。

老婆らの話を天草方言で聞きとり書きとったこの書から思い出したのは、まず、八代海の向かい側水俣の、石牟礼道子の『苦界浄土』。苦界とは、この書のタイトルにむしろふさわしいかもしれない。それからずっと最近のもの、キリシタンの歴史を踏破した傑作ドキュメンタリー、星野博美の『みんな彗星を見ていた』。天草や水俣を生きた無辜の民を見つめて、いずれも女性なのはどうしてか。

天草だからといって、キリシタンの話とからゆきさんの話を結びつけるのは付会のようでいて、そうでもないらしい。痩せてまた平地の乏しい天草という島が、人をキリスト教に引きつけ、海外へ出稼ぎへ赴く地理的背景にもなったらしいし、天草・島原の乱とそのあとのキリシタン禁制は、この島々に強い規制をもたらすことになったからだ。食うものも食われぬ生活と比して、どんなに嫌な仕事でも食べることのできる生活はありがたいという感覚は、軍隊のそれとよく似ている。

[J0081/200903]