ちくま新書、2020年。

序章 新宗教とは何か
第一章 新宗教としての創価学会
第二章 創価学会―弾圧と戦後の変容
第三章 法華系の新宗教―霊友会系の新宗教教団
第四章 大本の誕生と背景
第五章 二度の大本事件
第六章 新宗教発展の社会背景
第七章 新宗教の思想と信仰
第八章 江戸時代に形づくられた発生基盤
第九章 明治維新期の新宗教の展開
第十章 救済宗教としての新宗教
第十一章 現代日本人の宗教意識の変容
第十二章 新宗教の後退とオウム真理教
第十三章 新宗教と新宗教以後のスピリチュアリティ
終章 「救い」にかわるものを求めて

新書という手軽な形式であるが、あとがきにもあるように、長年にわたる著者の新宗教研究の集大成である。20世紀後半に隆盛し、オウム新教事件によって研究動向も大幅に転換することになった、日本の新宗教研究自体の到達点といってもいい。

新宗教を研究するのに、特定の宗教に肩入れした立場からではやはり特殊な色が強く出てしまうが、かといって、たんに奇異で奇矯な現象としてや、あるいは「アカデミックな」観察対象としてだけ捉えるルポや研究も平板になってしまう。著者はその点、個々の宗教に力添えするようなことはないが、しかしそれら諸宗教が拠って立つ社会的・歴史的状況に共感的なまなざしを寄せて、それが記述にバランスと深みを与えている。

「新宗教の成長期は19世紀前半から始まっているが、もっとも多くの住民を巻き込むたいへん大きな勢力に発展したのは1920年から1970年のおよそ50年間だった」(129)。新宗教研究が盛んだった1980~95年頃、欧米におけるカルトへの関心の高まりもあって、新新宗教と呼ばれたその当時の諸宗教が社会的にも注目されたが、著者がこの書でスポットを当てて、新宗教の歴史の中心に据えるのは、この1920~70年という時期である。その背景にあるのは、著者の歴史認識のもうひとつの焦点、国家神道の存在である(『国家神道と日本人』)。著者は、国家神道を敗戦とともに消滅したものとは捉えず、現代日本の宗教性をいまなお規定しつづけているとする。新宗教は、近代の都市化という社会条件に加えて、国家神道との緊張関係のなかで形成されてきたのであり、たとえば教祖崇拝の度合いなどは、そこから説明することができるという。

個人的にも、日本の新宗教が有する現世中心主義的傾向という論点は改めて興味深い。従来から生命主義的救済観と呼ばれてきたものもそれだが、「宗教だがあまり、死後の世界に関心がない。死後の世界についても、それほど強調していない。「霊界」などの語で死後の世界についてふれている場合でも、この世でよく生きることに力点がある教団が多いのだ」(153)。手前味噌になるが、私が実施した死生観の調査をみても、このことは新宗教の信者以外の一般人にも当てはまる特徴である( 諸岡了介「死と迷惑」『宗教と社会』第23巻、2017年)。

なるほどと思ったのは次の指摘。「新宗教のこのような現世中心主義は、多くの教団が伝統仏教と対立関係をもとうとしなかったこととも関わりがある。信者に伝統仏教との二重帰属を認め、新宗教に入信しても伝統仏教の檀家をやめるようには勧めず、信者は人が死ぬと伝統仏教にのっとって儀礼を伝える。これには親族や近隣の人たちとのトラブルを避ける面もあったと思われる。死に対処する状況では、伝統仏教に任せる。つまり、ふだんの信仰生活が死に向かっていない、死を強調する方向ではなかったことも大きく影響している。この時期の新宗教は、死についての儀礼を伝統仏教に委ね、葬式仏教との分業関係にあったとも捉えられる」(154)。逆に、近年多くの新宗教が信者を失っているのに対して、大本や創価学会は、自前で葬式を行うことが信者の世代継承率を高めているという(252-255。もっとも、天理教の信者数急減などはこれでは説明できないが)。

高度成長期までの新宗教があの世をさほど語らずにきたとして、高齢化多死がますます進む一方、「死」を管轄してきた伝統仏教の存在感が衰えてきた今、誰がどのように「あの世」について語ることになるのであろうか。たとえば、スピリチュアリティの「癒やし」は、どのように「あの世」への姿勢を形づくることができるだろうか。『精神世界のゆくえ』とは著者の主著のひとつだが、本書でもさらに広い視野から、日本の精神世界のゆくえが問われている。

[J0106/201202]