講談社学術文庫、2002年、原著1978年。

総論 最澄とその時代/天台宗の展開
1 最澄の出家
2 最澄の比叡入山
3 最澄の入唐求法
4 最澄と天台開宗
5 天台教団の充実
6 天台教団の貴族化と浄土教
7 中世・近世の天台宗
天台宗研究の状況
解説(木内堯大)

わかりやすく最澄の生涯を、それから天台教団のそれからの歴史を描く。自身天台宗の僧侶でもあった著者が強調する点のひとつは、最澄が比叡山に入ったのは、従来の諸宗教を批判したからでも、それと絶縁したからでもなかったこと。諸宗兼学の伝統を破った宗派の確立は、良忍による融通念仏宗が最初で、それから法然ということのようだ。筆者は最澄の仏道修行の「周到さと合理性」を語るが、ここに描かれている最澄の歩みは、一大プロジェクトの構築といった体である。筆者はまた、従来批判されがちであった、国家護持・現世利益のための仏教というあり方の当時における真剣さを語る。

また、改めて日本仏教の母体としての天台宗の役割がよく分かる。最澄による法華経の重視。『摩訶止観』の紹介。円仁による五会念仏・念仏三昧すなわち「山の念仏」。そして「おのおの宗を立て、宗を別っていく根底には、最澄以来つちかわれた、一乗仏教の思想が横たわっている。たとえ一声の念仏、一声の唱題、座禅の一法をもって、仏教的な救済悟入が成立するとすれば、生きとし生けるものに成仏を約束した、一乗思想をおいてなにが基盤となりえようか」(164)。

有名な話なのかもわからないが、最澄が桓武天皇から入唐の勅許をもらうのに、智顗の師僧、慧思の生まれ変わり伝説が関係していたというエピソードもおもしろい。「『叡山大師伝』をみると、和気弘世による高雄山寺での天台法門の講演会を契機にして、天皇は、天台法門が他宗にすぐれ、その祖師である南岳慧思が、日本の聖徳太子として生まれかわったといういい伝えに、ことのほか、こころを動かされたようである」(69)。なお、最澄の入唐が804年、聖徳太子の在世が593~622年、慧思の在世が515~577年ということらしい。

もう一点、特筆すべきはご子息による文庫版あとがきで、父親の思い出をつらつらと書き連ね、なんてものではなく、10ページ以上にわたって、原著が出版された1978年以降今日までに発表された関連の研究書を列挙したリストとなっている。

[J0107/201202]