現代企画室、1988年。蓮門教といえば、コレラ流行時に病気治しで教勢を伸ばし、万朝報の淫祠邪教キャンペーンで潰された明治の新宗教というくらいの理解。おそらくこの本が今日にいたるまで、蓮門教の歴史を中心に扱った唯一の書ではないかと思われる。著者はもともと毎日新聞の記者で、旺盛な著述活動を続けて、黒岩涙香の側の評伝も書いているもよう。

序 章 一枚の写真
第一章 前史
第二章 教祖誕生
第三章 発展
第四章 全盛期
第五章 淫祠邪教
第六章 滅亡
第七章 なぜ滅びたのか
終 章 民衆宗教と天皇制

著者も書いているように、滅びてしまった宗教だけにその実態に迫りうつ史料は限られている。それでも、ていねいな周辺史料の検討から、知らない事実がいろいろと。

教祖島村みつは、1831年小倉に生まれて1882年に上京、神道大成派に所属しながら布教活動を展開。教導職としてもどんどん昇進している。1891年には尾崎紅葉が蓮門教をモデルにした「紅白毒饅頭」を連載、1894年から『万朝報』が「淫祠蓮門教会」を連載。みつは1904年に死去している。

蓮門教は『万朝報』に対抗して新聞広告を出したり、訴訟を起こしたりおり、いったんは勝訴しているが、すぐに訴訟を取り下げている。どうもこうした手段に訴えたことが教団内でも世間でも評判がよくなかったらしく、結局はプラスにはならなかったらしい。

著者は、同じように淫祠邪教攻撃に遭いながら今日にいたっている天理教と対照させて、蓮門教が滅亡した理由を次のように考察している。ひとつ目に組織的な弱さ。ふたつ目に、息子の早逝など、後継者難。飯降伊蔵や大本の出口王仁三郎のような「第二の人物」の不足。さらに、宗教としての脆弱さとして、中山みきと比べた「みつの矮小さは覆うべくもない」と指摘する(193)。「みつの遺言を前に取り上げた。そこでもみつは、自らの作り上げた財産に執着し、その行方をひたすら案じるだけの老女である」(193)。

著者によれば、中山みきも島村みつも、江戸時代に淵源する生き神信仰の系譜上にある。それだけではない。現人神としての天皇を掲げるところの近代天皇制も同様である。
「近代天皇制は、一つの疑似民衆宗教だった。あるいはそう、少なくとも、そうした一面を持っていた。それは近代資本制社会の形成とともに出口をふさがれた底辺民衆の「祈り」を天皇制という幻想の共同体の中に吸い上げ、体制の安定を保障する装置だった」(222-223)。

こうして、近代天皇制化の宗教統制や弾圧は次のように説明される。
「疑似民衆宗教・近代天皇制は、民衆の心性の回路として有効に機能するために、現人神に拮抗する生き神の権威を掲げた民衆宗教の存在を許容することはできなかった。つまり、民衆宗教が民衆教として発展しようとするとき、それは不可避的に「体制への異端」となり、正統宗教たる疑似民衆宗教と相入れないものとして弾圧されたのである」(223)。

[J0117/201225]