講談社現代新書、1995年。

プロローグ 庶民の時代
1 国土利用の転換点
2 米と四木三草
3 農民は貧しかったか?
4 農書が語るもの

1995年当時には、江戸時代における社会発展はすでによく論じられていたと思うが、その流れのなかでとくに農民層にスポットを当てたのがこの書。最近だと水本邦彦『村』(岩波新書、2015年)が類書かな。

正直、そう目新しいことはないが、いちおうメモ書き。
「日本列島の耕地開発は、古代の条里制施行期、戦国時代から江戸時代前期、明治30年代という三つの画期をもっている。なかでも戦国時代から江戸時代前期は、日本史ではいまだかつてない耕地開発の行なわれた「大開拓の時代」ということができる」(30-31)。
「検地は江戸時代の土地制度上では前期の段階で終了しており、中期以降は実施されなかったとみなすことができる。江戸時代のムラでは、この検地帳が村方にとって最も重要な帳簿として認識され、大切に保管されて現在に伝えられている事例が少なくない」(38)。
「農作物の商品化あるいは「米価安の諸色高」という物価現象をもたらしたのが、四木三草である。四木三草のうち四木とは茶・桑・漆・楮であり、三草とは麻・紅花・藍である」(50)。
「衣・住においても江戸時代初頭には、庶民衣料の原材料が麻から綿へと転換した。また、高級織物の原材料であった白糸(生糸)の中国からの輸入禁止にともなって、国内の養蚕業が興隆し、江戸時代経済における衣料の産業部門が急速に発展した。綿作の拡大と養蚕業の発展、それにともなう綿・絹織物業の展開は、藍・紅花などの染料作物の需要を大幅に増加させた」(52)。「養蚕業と綿作は幕末期にまったく異なる道をあゆむことになる。綿作は江戸時代に高度な商品生産の展開をみたものの、安政の開港後の外国産綿織物の大量輸入によって急速に衰退する。一方、養蚕は、開港が国内産の蚕種・生糸をこれまでの国内市場向けから世界市場へと進出させることになり、近代日本の外貨獲得の最重要産業部門となったのである」(54)。
「綿作の副産物である綿実は、江戸時代前期の段階では次年度の綿作の種子以外はすべてゴミとして廃棄処分されていた。しかし、大坂で綿実の搾油技術が発明されてからは、菜種と並ぶ重要な燈油の原料となり、しかも綿実粕が田畑の地力維持に施肥されたのである」(89)。
「江戸時代中期以降には武士・公家だけでなく、庶民までも夜の暗がりに人工の明りをともすようになり、日本人の現代につらなる一日の暮らしぶりの原型が形成された。照明器具の庶民への普及が夜なべ仕事を可能にしたり、読書・芝居・習い事などの趣味や娯楽に夜の時間をまわすことを可能にしたのであり、庶民文化の開花をになったのである」(89)。
江戸時代における農民層でのイエの成立を踏まえつつ、「江戸時代の農民はイエとしての家族と、ムラとしての生産組織という、いわば二重の再生産単位に立脚してはじめて生きながらえることが可能となったのである」(99)。

「江戸時代ほど日本史のなかでタテマエとホンネの落差の大きい社会は存在しないからである。現存する膨大な地方文書はほとんどタテマエの世界を文字化しているにすぎないのである」(118)。

 紹介されている村定の例、信濃国諏訪郡中新田の寛政四年(1792)の「村中一統申合定書」全二十ヶ条のひとつ、「角力(相撲)は五カ年の間禁止のこと。ただし、流行病のときは相談によって開催すること」(123)。

「日本の農書の成立は、決して江戸時代前期の段階で達成されたわけではない。主要な農業技術書が古代・中世はもちろんのこと江戸時代前期の段階において成立したわけではなく、十七世紀後半の元禄時代から十八世紀前半の享保期にかけて集中的に登場しており、その成立は日本列島の地域差を超えて分布し、北は陸奥国から南は琉球にいたるまで全国各地で確認することができるのである」(139)。そしてその前提、ひとつ目に小農技術体系の確立、ふたつ目に農民における生産余剰の成立、三つ目に商品生産を発展、四つ目に識字力を、五つ目にイエの成立とその永続性の願いを筆者は挙げている。

[J0118/201226]