中公新書、2020年。

序章 近世日本の民衆暴力
第1章 新政反対一揆―近代化政策への反発
第2章 秩父事件
第3章 都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム
第4章 関東大震災時の朝鮮人虐殺
第5章 民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理

書評等で良い評判をいくつか目にしたが、たしかに読む価値のある本。ただし、いくつかの疑問もある。

まず、誰でも気づくことかもしれないが、新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き討ち事件が、ある程度政治的な動機を含む出来事だったのに対して、関東大震災時の朝鮮人虐殺は、大災害発生に対するパニックが前提になっているぜんぜん性格がちがう事件だったわけで、どこまで一緒に扱えるだろうか。その朝鮮人虐殺だけは2章を割いているしね。僕が論旨を掴めていないのだろうか。

それから、この書で展開されている安丸良夫の通俗道徳論批判の妥当性について。著者は、秩父事件や日比谷焼き討ち事件について「通俗道徳では収まりきれないエネルギーが源泉となって」という説明を付し、これらの事件のエネルギーと通俗道徳を対置する(96)。だが、もともと通俗道徳というのはそれに対する報いの感覚を伴っているもので、それが報われなかったときに「暴力」に流れる経緯は、むしろ通俗道徳論の枠組みでこそ解釈できるのではないか。

こうした本書の解釈が不満なのは、著者が次の二点を逸していることにもよる。ひとつは、強い秩序の感覚こそが逆に抵抗や決起を促すという図式は、農民一揆についてずっと論じられてきた図式だということ。それなのにどうして、通俗道徳と暴動を単純に対置するのだろうか。もうひとつは、近世には民衆側の必要性に即して展開した通俗道徳の展開が、明治になって国家に利用されるようになったという安丸良夫の重要な論点を無視していること。

個人的に興味を持ったところは、賤民廃止令に反対して被差別部落の方を襲撃する動きがあったこと、ポーツマス条約に対する厭戦気分に満ちた投書など。本書全体の構成はともかく、朝鮮人虐殺の「義侠心に駆られて」的なマッチョな論理を追うところも。

たしかに今、日本で暴動が起きることは想像がしにくい。僕が思うにその大きな要因として、日本の丸抱え的な雇用制度が長年のあいだ、反社会的な行動に対する強い抑止力として働いてきたことは、新型コロナ対策の様子をみていても分かるように思う。その逆の例として、会社を首になることを怖れる必要のない「迷惑系YouTuber」とかね。もし将来、社員の社会生活を監視するようなタイプの雇用制度が根本的に変動したら、あるいは単純に失業率が極端に上昇したら、「おとなしい日本社会」もまた変化する可能性はありそうだ。

[J0119/201229]