岩波新書、1994年。

第1章 来日前のハーン
第2章 ハーンと明治日本
第3章 ハーンの文学
終章 日本人のハーン発見

「虚像と実像」と副題にあるとおり、批判的ハーン論。ハーンを知る本の一冊目にはふさわしくないが、批判は批判で大事。

批判の焦点はふたつある。ひとつは、ハーンを持ち上げる読者側の動態について。もうひとつは、日本を描く際のハーンの視線や技法についてで、とくには後者が中心。後者にはさらにふたつの論点があって、ハーンの「人種主義的傾向」つまり本質主義的傾向がひとつ、それからハーンにおける「日本」の虚構性がもうひとつ。

著者は「人間性はどこでもだいたい同じだ」とするモース型と対比して、ハーンは日本人の日本人性を実体視しているとする。「モースにおいては、日本の方の優れていることがあれば、日本から学べばよい、のである。しかし、ハーンにおいては、違いは多くの場合、生まれながらの人種的違いに根ざしていると見なされる。したがって、それは越え難い違いなのである」(14)。

ハーンがそういう思想的傾きを持っていたのは、ほんとうなのかもしれない。が、それがどこまで彼の仕事や作品を規定しているかどうか。また、ハーンが描く「日本」の虚構性については、とくに晩年にいたってハーンの作品はより普遍的な世界に近づいているとして、いわばその虚構性に価値を見出す牧野陽子の評の方を持ちたい。ハーンが、作家であるような、日本文化論者ないし民俗学者であるような、中間的な存在であることが事態を複雑にしている。

要するにこの本の批判がほんとうに向けられるべきは、ハーンやその作品自体である以上に、それを「日本の文化を素晴らしさを正確に書き残した」と受けとめる素朴な理解に対して、である。こうした批判は、柳田國男あたりへの批判とも共通するだろう。モース型・ハーン型という類型も単純すぎるし、著者自身、結局は「虚構/実像」の二元論の上に立っている部分があるように見える。ハーンに対する素朴理解がきわめて根強い以上、そのかぎりでは必要な、現れるべくして現れた批判書ともいえる。

[J0131/210207]