文藝春秋、2019年。

第1章 リョウコが母になるまで
第2章 働く母、リョウコ
第3章 リョウコに教えてもらったこと
第4章 リョウコと衣食住
第5章 リョウコと家族
第6章 リョウコという母親

ヤマザキさんの母親が札響の創始メンバーだと聞いて、一読。札響とは札幌交響楽団のことで、北海道ではよく親しまれている地元のプロ・オーケストラ。もともと神奈川のお嬢さんだったリョウコさんだが、ヤマザキさんが生まれてすぐ、札響の指揮者だった夫は病死してしまい、その後多くの期間をシングルマザー音楽家としてふたりの娘を育てたとのこと。

おもしろエピソード満載だが、とくに印象に残るのは、再婚相手の母、ハルさんとの関わり。もともと日本国外で働き、別居していた再婚相手の夫とはあまり長く続かなかったようだが、行動パターンでは対照的な、義母のハルさんとリョウコさんは気があったとのこと。離婚後も一緒に暮らして、「晩年は認知症を患い、私や妹も誰かわからない状態になっていたが、リョウコのことだけは忘れることがなかった。近くの病院に入院をした後も、リョウコが病室に入っていくとその表情はパッと明るくなり、皺だらけの震える手を差し伸べてリョウコの手をしっかり握っていたのを思い出す」(44)。

リョウコさんが海外公演で長期出張のときには、ヤマザキさん姉妹は友人の家に預けられて、不安と居心地の悪さを感じながら暮らしたと。「我々を迎えにきた時のリョウコはやたらと元気いっぱいで眩しかった。子供にやっと会えた安堵の喜びなのだろうけれど、その佇まいには何か更にパワフルなエネルギーが漲っていて、私たちを預かってくれた家族に対して恐縮している言葉と、その身にまとった輝きが全くシンクロしていない。リョウコは帰宅して一目散で岩見沢に来たので、我々に会うや否や胸の中に飽和している旅の感動と喜びが噴出して止められなくなっていて、お土産を広げて旅の話をするリョウコを前に、私も妹も圧倒されるしかなかった。淋しかったとか悲しかったとか、そんな気持ちを旅の興奮に包まれている彼女の前で晒してみたところで、みみっちいだけなような気がしてならなかったし、それ以上にリョウコの体験してきたことがうらやましかった」(61)。

「オフの日があっても、家にはヴァイオリンを習いにくる近所の子供やリョウコのカルテットの仲間たちが集まる。音楽家としてのリョウコに、母親らしい時間を割かせることはなかなか難しかったし、私も彼女にはそれを望んではいなかった。そして、やりたいことに全身全霊を注いで生きるリョウコにも、後ろめたさはなかった。だから、私の中にくよくよする性質が育まれることもなかったのだ」(76)。

それからときどき出てくる『暮らしの手帖』。「貧乏でもお金の影響力に翻弄されることのなかったあの暮らしは、リョウコが愛する『暮らしの手帖』イズムで、「お金がなくても楽しく生きていける」ことがデフォルトだった」(80)。「この雑誌の発起人であり編集者であった花森安治氏は、資本主義の波に呑み込まれていく高度経済成長期の日本人に対する警戒心を軸とした編集方針を持っていた。彼の孤立無援ながらも確固たる主義主張が、夫を亡くし気落ちしていたリョウコにとっては絶大な支えとなっていたようなのだ」(146)。

ヤマザキ家では漫画は禁止だったとのことで、それなのにマリさんが漫画家になったというのも面白い。

僕は、ヤマザキさんよりももう少し下の世代だが北海道出身者として、この当時の北海道の感じといい、この『暮らしの手帖』的なものといい、かつて覗いたことのある、見覚え・聞き覚えのある世界を振りかえっている気分。

[J0194/210830]