1 『女工哀史』日記
2 ヤミ屋日記
3 ニコヨン日記

岩波文庫、2015年。原著は1980年。前半は、岐阜の貧しい炭焼きの家に育った生い立ちから、『女工哀史』の細井和喜蔵の妻として、ともにこの仕事に打ち込んだ話。後半は、ニコヨンと呼ばれた日雇い労働者として、労働運動に打ち込んだ人生について。

とくに戦前・戦後すぐの頃の話は、周囲の人がしょっちゅう死んで、残酷と野蛮と純情に満ちていた時代が印象に残る。人生を通じてとにかくエネルギッシュで硬骨で、外見だけだとありふれた小柄なおばあさんに見える、扉の写真を何度も眺めなおしてしまった。細井和喜蔵の影に隠れていたとしをが老年を迎えてから「再発見」される経緯については、としをへの共感に満ちた、齋藤美奈子さんによるさすがな解説を。

時代性がわかる記述も多いのだけども、脇道的にちょっと興味深かったのは、1962年くらい、失業対策事業の仲間にもさかんに創価学会の勧誘がきて、ケンカの原因になって困っていたところの話。一計を案じたとしをさん、みんなで高野山にお参りへ。「そこで私が「今日から弘法大師と日蓮上人のけんかはやめましょう。お大師さんも日蓮さんもお情け深いお方で、私たち衆生が仲よく心おだやかに、いたわりあってしあわせに生きるためにお心を痛め、時の権力者から追われて、奥深い山や波荒い佐渡へ流罪になったのです。私たちが学会だ、大師さんだ、天理さんだとあらそっていたら、今は仏さまになられた方が泣かはると私は思う。今日から創価のソの字も禁句にする」とちょっとえらそうにいったけど、みなみなだまっていました」(249)。結果、学会員の人は一人抜け二人抜けして「結局、公園班には創価学会員は一人もおらなくなりました」とのこと。もちろんというか、としをさんは社会主義者だから基本、無神論者であった模様。

[J0195/210830]