Month: April 2020

岡田晴恵『強毒型インフルエンザ』

PHP新書、2011年刊。

1.鳥インフルエンザはなぜ蔓延しているのか
2.ゼロからわかるインフルエンザウイルス
3.新型インフルエンザウイルスにどう対処するのか?
4.病原性別インフルエンザの傾向と対策
5.感染予防と自宅療養の準備
6.歴史から見たインフルエンザウイルス

――「鳥インフルエンザは、それが発生している地域では、鶏肉や卵からも感染しうる。すべての部分が70℃以上に十分加熱しているか、確認することが重要である」(p.34)

――免疫には自然免疫と獲得免疫がある。

――「鳥インフルエンザは鳥のウイルスであり、高い種の壁があるために、鳥とは種の異なる人には感染しないと、以前は考えられていた。しかし、1997年、香港でH5N1型強毒型鳥インフルエンザが人も感染し、18人中6人が思慕するという衝撃的な事例が起きた。」「香港政府は、苦渋の決断で人へのウイルスの供給源である家禽すべての殺処分に踏み切り、鳥ウイルスを香港から一掃したのであった。実に年末の3日間で140万羽の家禽を殺処分して、これ以上、人へ感染することがないようにウイルスの供給源を断ったのである」(p.100)

――なお、本書の主題である強毒型インフルエンザは、上気道に取りつく弱毒型のインフルエンザとちがい、全身の細胞に感染する。これまで流行してきたインフルエンザはすべて弱毒型。

――「H5N1型鳥インフルエンザの人感染例では、患者の95%以上が40歳以下であり、乳幼児から特に10代、20代での重症例や死亡例が多く、この10代、20代の若年成人層を中心とした世代の致死率は7割を超えて高いことが特徴である。…若年層の世代は免疫応答が活発で、サイトカインストームが起こりやすいためである」(p.125)

――ここ、一番興味深かった箇所。「インフルエンザウイルスは高頻度で遺伝子の変異を起こしやすいため、もし鳥の体内で遺伝子の突然変異を起こして強毒型の致死率の高いウイルスが発生しても、その個体を短期間で殺してしまい、野外ではその強毒のウイルスは淘汰されて消えていく。しかし、ここ数十年、鶏肉や鶏卵が安価で飼育が容易な貴重なタンパク源の食糧であることから、数万から数十万羽の単位で、多数の鶏を狭い鶏舎で密集して飼育する方式が普及し、大規模な鶏舎飼育設備が世界中で作られてきた。・・・・・・このような環境に弱毒型のH5亜型、またはH7亜型のウイルスが侵入すると、突然変異が起こる回数が増え、強毒型ウイルスへの変化の機会も増える」(pp.133-134)

――「何回も繰り返すが、新型インフルエンザ発生時には、医療現場の混乱や社会の混乱が想定されることである」(p.164)

――「スペイン風邪の大流行のあとには、脳炎(嗜眠性脳炎、エコノモ脳炎ともよばれる)が多発した。ウイルスそのものは脳に感染していないので、サイトカインストームによるインフルエンザ脳症の後遺症ではないかと想像されるが、発症機序についてはいまだ謎である。さらにスペイン風邪の10~20年後には、パーキンソン病が多発している」(p.229)

・・・・・・という具体で、インフルエンザとコロナウイルスのちがいはあるが、こうした感染症が起こりうること、それが社会混乱や医療破綻を生むことは、感染症の専門家には予想できたことであったということ。もしそうだとすれば、強毒型インフルエンザが流行する可能性がある――その直接的な危険性は今回のコロナでも比べものにならない――という予測も、現実味のあるものとして真剣に考えねばならないのかもしれない。今回の新型コロナの流行が、どこまでそうした感染症対策向上のきっかけとなりうるかどうか。

[J0027/200417]

『社会学はどこから来てどこへ行くのか』

岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(有斐閣、2018年)。Where does sociology come from? Where is it going to?

対談形式なのでぱっぱとと思ったが、二段組で、読むのにずいぶん時間がかかった。方法論の話が多く、『マンゴーと手榴弾』を読んで浮かんだ疑問、岸さんは社会学をどういう学問と考えているのか、という点にもあちこち答えている。

岸さんは、安易な比較ではなく、むしろひとつのケースの中の多様性を描くべきとする。

北田さんが、社会学の話法として「時代診断」と「合理性を媒介にして理解すること」の二つを挙げている(p.41)。そして、北田さん岸さんとも、前者には他のやり方があるが、後者の側面にこそ「社会学らしさ」があるとする。

北田さん岸さんは、ある種の構築主義を「概念枠の相対主義」と批判するデイヴィッドソンの立場に共感する。「理解というのは「できる/できない」という問題じゃなくて「できちゃう」というところからスタートしなくてはいけない。こういう話だと僕は思っていて、概念枠の神話に乗りかかっているような人が、やはりポジショナリティの話に乗っかっちゃっている」(北田、pp.47-48)。一番最後のくだり、「理解ができているはず、できている以上は、相手に合理性があるし、相手がそこで急き立てられている何かがあって。」(岸、p.361)

岸さんはブルデューを評価する。ブルデューやウィルスについて、「ひとつの場で、複数の社会的ゲームが走ってて、各自は自分が勝とうとするゲームに参加するわけです。同じ場にいたとしても、じつは違うゲームに参加していたりする」(p.113)。「じつはその「どの観点から合理性を見るか」っていうことは「どのゲームに参加しているか」っていうことを見るかっていうことですよね」(p.114)。そうそう、そのとおり。合理性ないしルールの多元性と錯綜というこの観点で押していけば、社会学の規定にも繋がりそうな気がするが、この観点で最後までは論じていないんだよね。これって、いわゆる語りの多元性とは似て非なるもので、そこが肝になるのでは。

経済学者や心理学者は、人間は人間としてはみな同じという前提をおく。そこではじめて介入とその結果を辿る因果効果を析出することができる。社会学はそうではなく、異質なグループどうしを較べようとする傾向が強い。(筒井、pp.190-191)

岸さんははじめ、社会学における他者理解や代表性の問題にも関わって、「相場感」というものの存在やそこへの信頼を強調する。その議論の中で、私たちが日常生活の中でカテゴリーや因果関係を用いており、その延長線上に比較対照実験といったこともあると、筒井さんが指摘(p.260)。「相場感」の話は措いて、個人的にはこの日常的理解との延長戦というラインで、科学を規定していきたい。問題意識、問題設定の水準で人々の生活や実践に戻ってくる必要がある、と述べているところで(p.266)、このへんの議論は自分の考えは筒井さんに近いのか。p.295あたりでも、特定のコミュニティへの介入を前提として、因果推論的な研究をやろうにも、介入をする前に必要な予備知識というものがあって、そのあたりに社会学者の活躍の場があると筒井さんが述べていて、確かになと。

北田さんが、シカゴ学派中心史観に隠されたドゥボイスの重要性について解説をしている。『フィラデルフィアのネグロ』は、『ポーランド農民』よりずっと早いと。

岸さん。ある種の福祉業界の人は、社会問題の存在を自明視して、本人は問題とはおもっていない、意外と楽しくやっているといった側面を見落とすことがあると指摘。一方で岸さんは、社会問題は存在するという立場を強く打ち出しているから、そのはざまに彼の立場はあるということになる。ここでは、「自分と違う人々」として相手を捉えることという表現をしている。

めちゃめちゃ個人的なメモですみません。

[J0026/200409]

岸政彦『マンゴーと手榴弾』

岸政彦『マンゴーと手榴弾』(勁草書房、2018年)。

『断片的なものの社会学』はエッセイであったが、この本は生活史の方法について、非常に重要な理論的問題を取りあげている。この本に通底しているその問題は、典型的な構築主義が示してきたように、調査者は話者が語る世界から身を退けて、それをひとつの「語り」として捉える立場に甘んじていていいものだろうかという問いだ。

理論的反駁一本でゴリゴリ書くのではなく、実際の語りを提示して、その重みを示しながら論を展開する手腕はさすが。反面、そのやり方でスルーさせられている事柄もある気がしてしまうのは、こちら読み手の問題もあるかもしれない。社会学者が話者とともに共通の現実構築に関わっていること、そして社会学としてのアウトプットの現実性もまた、たえまない社会的な相互過程の中で保証されるということについては、正にそう。

きっとこの本の範疇を超えてしまうのだが、そうやって社会学という営みを続けていく意味についても――それはやはり社会学でなくてはいけないのか――、もうちょっと聞いてみたい、考えてみたい。

[J0025/200408]